上司というのは、独裁者ではない。確かに、部下が上司の指示に従わないとしたら問題であると思うし、それによって仕事に差し障りが生じたとしたら、それは処分の対象となりうる。しかし、意見を言ったことで処分をされるとしたら、それは単なる私怨であり、ある種の言論の自由を封じるものとも言えよう。

 民間企業で社長に意見ができるのか、と知事は言う。しかし、間違った方向に会社の経営が進んでいた場合、相手が社長であったとしても、諫めるのが正しい部下のあり方であろうと思うし、それは受け入れる度量がトップには求められると思う。

 知事は、周りをイエスマンで固めたいようだ。しかし、それは間違いの元であることを、歴史は示していると思う。今までにも、イエスマンだけで周囲を固めたことにより、間違った方向へ進んでしまい、つぶれていった例はいくらもあるはずである。
 いわゆる反対勢力を、ふところに抱えることは危ない。しかし、反対意見を言う自由は、与えてもしかるべきではないだろうか。私はそう思う。

 部下にはいろいろな意見を持つものがいる。それを主張するのは、私は自由だと思う。当然、経営方針などについて、最後の決断を下すのはトップの役割である。したがって、部下の意見を聞き入れるかどうかは、そのトップが決めればよい。しかし、その前に様々な部下の意見を聞いてみる。そして、良いものは取り入れたり、自分の考えに問題があれば修正する、といった程度の柔軟性は、トップには求められてしかるべきではないだろうか。

 最近、日本人はやたらとリーダーシップという言葉に踊らされている。しかし、ここで冷静にならなくてはいけない。リーダーシップやカリスマ性の先にあるのは、ある種の独裁である。イエスマンに固められた集団は変化に対応できず、トップの判断ミスが、組織の崩壊にまでつながってしまうことがある。ヒトラーの例を出すのに問題があれば、経済界でも堤清二氏のセゾングループや、中内功氏のダイエーグループの例を考えてみれば良いだろう。ビッグネームになりすぎたトップを抱えてしまうと、周囲は意見が言えなくなる。それは、間違いを正す自浄作用さえも失わせてしまうのである。

 今、大阪府は、橋下知事の独裁体制になろうとしている。知事は、大阪府民の支持の下、独裁体制を敷こうとしている。もともと、知事は大統領制に近い制度であるから、独裁制に近いものとなりやすいところがある。ただ、それでいいのか。府民の支持があれば、果たしてそれで良いのか。私は、法律家としての橋下知事に、あらためて聞いてみたい。
 上司というのは、独裁者ではない。確かに、部下が上司の指示に従わないとしたら問題であると思うし、それによって仕事に差し障りが生じたとしたら、それは処分の対象となりうる。しかし、意見を言ったことで処分をされるとしたら、それは単なる私怨であり、ある種の言論の自由を封じるものとも言えよう。

 民間企業で社長に意見ができるのか、と知事は言う。しかし、間違った方向に会社の経営が進んでいた場合、相手が社長であったとしても、諫めるのが正しい部下のあり方であろうと思うし、それは受け入れる度量がトップには求められると思う。

 知事は、周りをイエスマンで固めたいようだ。しかし、それは間違いの元であることを、歴史は示していると思う。今までにも、イエスマンだけで周囲を固めたことにより、間違った方向へ進んでしまい、つぶれていった例はいくらもあるはずである。
 いわゆる反対勢力を、ふところに抱えることは危ない。しかし、反対意見を言う自由は、与えてもしかるべきではないだろうか。私はそう思う。

 部下にはいろいろな意見を持つものがいる。それを主張するのは、私は自由だと思う。当然、経営方針などについて、最後の決断を下すのはトップの役割である。したがって、部下の意見を聞き入れるかどうかは、そのトップが決めればよい。しかし、その前に様々な部下の意見を聞いてみる。そして、良いものは取り入れたり、自分の考えに問題があれば修正する、といった程度の柔軟性は、トップには求められてしかるべきではないだろうか。

 最近、日本人はやたらとリーダーシップという言葉に踊らされている。しかし、ここで冷静にならなくてはいけない。リーダーシップやカリスマ性の先にあるのは、ある種の独裁である。イエスマンに固められた集団は変化に対応できず、トップの判断ミスが、組織の崩壊にまでつながってしまうことがある。ヒトラーの例を出すのに問題があれば、経済界でも堤清二氏のセゾングループや、中内功氏のダイエーグループの例を考えてみれば良いだろう。ビッグネームになりすぎたトップを抱えてしまうと、周囲は意見が言えなくなる。それは、間違いを正す自浄作用さえも失わせてしまうのである。

 今、大阪府は、橋下知事の独裁体制になろうとしている。知事は、大阪府民の支持の下、独裁体制を敷こうとしている。もともと、知事は大統領制に近い制度であるから、独裁制に近いものとなりやすいところがある。ただ、それでいいのか。府民の支持があれば、果たしてそれで良いのか。私は、法律家としての橋下知事に、あらためて聞いてみたい。
 今使っているシェーバーがナショナルの自動洗浄機付きのやつなのだが、長く使ってみて、やはりナショナルはダメだと気づいた。というか、買ったときから、やっぱりブラウンにすべきだったかなと思ってはいたのだが、長く使ってみて、ブラウンにしておくべきだったという後悔の思いはより一層強くなってしまった。

 そこで、誰かが読むかもしれないので、私が思う問題点を書いておきたい。

 まず、洗浄方式の問題。ブラウンは洗浄のために大きなタンクを買ってくる必要があるが、その代わりアルコール洗浄。パナソニックは小さなカートリッジを買ってきて、タンクに自分で水を入れるという方式で、水洗浄。確かに買うときにはパナソニックのカートリッジの方が小さい。しかし、長年使ってみると、以前に使っていたブラウンのやつは、中を見ると洗った後ピカピカだったのに、パナソニックの方はむしろ変な汚れがこびりついてきてとれなくなってきたことに気づく。ちなみに、同時期に買った父親のブラウンはやはりピカピカ。洗浄能力の差は大きいようである。
 しかも、先日などは、妙な匂いがしてとれなかった。おかしいと思い、洗浄液を全て捨てて、新しいのに入れ替え、もう一度洗浄したところ無くなったが、こんなことはブラウンではなかった。

 また、洗浄方式の違いは、洗浄時間の違いにも影響する。ブラウンはアルコールなので数十分で終わるが、パナソニックは水なので、数時間かかる。しかも、うっかり乾ききらないと、次に使おうとしたときにまだ水で濡れていたりする。そのこと自体は確かに説明書にもハッキリ書いてあり、いわゆる「仕様です」というやつなのだが、翌朝にそんな状態だと、ハッキリ言って、テンションが下がる。

 それと洗浄機も困ったものだ。ブラウンは大きいのだが、接地面が円形なので安定感がある。ところが、パナソニックのは縦長の箱のような形状なので、うっかりすると倒れやすい。今までに倒したことは数知れず。そのたびに漏れてきた水を拭き、新しい水と洗浄剤を入れる必要がある。小さいことがいいことだというのは正しいのだが、必ずしもメリットだけではないということであろう。

 それと、肌に当たる刃の部分であるが、ブラウンの方が当たりが柔らかい。そして、よく剃れる。たまに父親のやつを借りてやってみると、あまりの違いに愕然とすることがある。

 シェーバーも安全カミソリも、やたら刃の数を増やすのが流行である。しかし、4枚刃を買ってみて、それほど良くなったと実感したことは少ない。また、風呂の中で剃ったりしないため、防水で水洗いができるというメリットも、あまり享受したことがない。むしろ、アルコール洗浄で常にきれいにしていれば、水洗いをする必要なんて無いし、今になってみれば、水洗いが必要なのは、パナソニックの洗浄機が不完全だからであって、そのデメリットを隠すためのものにすぎない。

 きっと、こちらのパナソニックを気に入っている人もいるのだろうから、その人の意見を否定するつもりはない。しかし、少なくとも私の使い方、環境においては、便利さにおいても、性能面においても、ブラウンの圧勝であり、友人に相談されたら、私は確実にブラウンの自動洗浄機付きをすすめることになるだろう。

久しぶりに

2009年7月18日 日常
 久しぶりに開いてみた。ライブドアブログに一元化しようと考えていたのだが、ふと思い出して開いてみると、こちらはこちらで書いてみたいことがある。やはり分業してやっていこう。
08月30日付 朝日新聞の報道「11病院拒否 搬送3時間県外へ40キロ 奈良の流産」へのコメント:

 ひどいなぁ、救急車を頼んでも、何の役にも立たないってことじゃない。それに、記事によると、最初に受け入れを求められた奈良県立医大病院には空きベッドがあって、本当は受け入れ可能だったらしい。ただ、当直医にきいたら、後にして欲しいと言ったらしくって、それを事務員が勝手に勘違いして受け入れ拒否と取ったというんだけど、この言い訳はちょっと無理があるでしょう。

 どうせ、当直医は面倒くさいと思って、受け入れ拒否をしたんだけど、あとから流産したと聞いて、ヤバイと思ったから、慌てて事務員のせいにしたというところじゃないかな。まあ、それだけ医療の現場はあれているということであって、医師なんて言っても、人の命を救おうとかじゃなくて、ただ単に金がいいからなったという医者が増えているってことなんでしょう。まったくイヤな世の中になったもんだ。下手に医者にもかかれやしないよ。
07月09日付 日刊スポーツの報道「偽装コロッケは32万個」へのコメント:

 肉なんて、混ぜてしまえばわからない。逆においしくなるくらい。
 しかも、馬肉だって、牛の脂を塗りたくれば牛肉になる。
 大腸菌が検出されても、生で食べる人なんていないし、どうせ加熱するから大丈夫。

 肉の専門家がそう言うんだから、きっと間違いないんだろう。
 実際、これまで何年もバレなかった。
 今回の件だって、アホな三男坊が役員たちとケンカしなかったら、こんなに明るみには出なかっただろう。
 ましてや、告発を受けた農水省や北海道の役人が、面倒くさがって調べないような状況ではなおさらだ。

 役人が告発を聞いても無視し続けたのは、仕事が増えるのが面倒くさいなんていう私的な理由だけではなくて、ミートホープの経営への影響や、それに伴う苫小牧市や北海道の経済への影響。そして、食の安全への信頼の破綻といった影響など、様々なことを考慮して、これをまともに扱うと大変なことになると思ったのかも知れない。
 しかし、食の安全を監視・監督する部署においては、まさにそう言った安全が守られているかどうかだけを考えて行動すべきであり、行動指針も食の安全が実際に守られている状況をいかにして実現するかという点に求められるべきだろう。そういう意味で、彼らの行動は大きく間違ったと思う。

 先日、ジョナサンの日替わりランチを頼んだところ、牛肉コロッケが出てきた。食べていると、中から何か噛み切れないものが出てきた。何かと思って見てみると、薄くカットされた楕円形の物体が出てきた。これは明らかに肉ではない。むしろ筋と言った方が正しいのではないだろうか。

 「もしかしたら、ジョナサンの牛肉コロッケもミートホープ?」

 そして、冷静に考えてみると、ミートホープは業務用もかなり作っていたことに気づく。確かに偽装が発覚してから、小売業界では製品が撤去されたという話を聞く。しかし、外食産業で仕入れてしまった牛肉コロッケを処分したという話は聞こえてこない。とすると、かなりの確率で、ミートホープの社長と同じく、もったいない精神もあって、そのまま客に出しているのではないかと思われる。

 また、ジョナサンの牛肉コロッケがミートホープ社製ではなかった場合。これはもっと怖いことになる。つまり、第二、第三のミートホープの存在が、示唆されているように感じるからである。そして、それが加ト吉やジョナサンといった、よく知られたブランド名に隠されながら、消費者のもとに届く。外食産業においては、消費者は知らないうちに食べさせられる。何とも怖いことではないか。

 最近、中国製の食料品についても、疑わしいことが知られてきている。そして、それに伴い、なぜか食の安全を脅かすものに対し、厳しい態度で臨もうとしない役人たちの姿があらわになってきている。

 企業というのは営利を追求するものであるから、例えば有名な外食チェーンが偽装コロッケを使っていたとなれば、イメージという点でも大きな経営的打撃を受けることになるし、実際に各店に配られた食材を廃棄するとなれば、それはそれで大変な損失になるだろう。直接・間接の経営的損害を考えれば、黙って使ってしまうというのが、経営判断としては取りやすい選択ではないだろうか。でも、だからこそそれを取り締まるべき存在が必要なのであり、そこに行政の存在意義があるはずである。

 全ての役人が悪いとは思わない。しかし、今出てきている結果を見れば、良い結果とは言えないことも確かであろう。ここは今回の事件を良い教訓として、役人たちには視点を変えて欲しい。そして、取り締まるべきところは厳しく取り締まって欲しい。社内で内紛が起こらない限り、不正が発覚しないような取り締まり体制では明らかに不十分である。今後、そういったところが是正されなくては、外食産業なんて怖くて使えないし、食材を買ってくるのでさえ、何を信じていいのかわからなくなる。
 今、日本の行政改革は、まだ途中かも知れない。しかし、過渡期だからといって、犠牲になるのは私たちである。本当に一日でも早く、この過渡期を脱出して、違反者には厳しい態度で臨める組織を作って欲しいものである。
05月18日付 朝日新聞の報道「人質の元妻を保護 愛知の立てこもり事件」へのコメント:

 なんとも平和な国である。これがアメリカだったら、犯人は射殺されていても仕方がないだろう。ところが日本であれば、警官が撃たれて重傷になろうが、将来のある若い優秀な警察官が殺されようが、話し合おうと言って、長時間にわたって遠巻きに眺めているだけなのである。なんとものんきな話ではないか。

 これがもし、この前アメリカで起こった大学での銃乱射事件のようなものだったらどうなるのだろうか。
 ただ、それでもきっと、日本の警察は同じことを繰り返すにちがいない。話し合おうと言って、みんなで囲って、遠巻きに眺めているのである。
 若い大学生たちが撃たれて苦しんでいたとしても、仲間が撃たれてケガをしたとしても、きっと日本の警察は、犯人が心を入れ替えて説得に応じ、銃を投げ出して降参してきてくれるのをじっと待つのであろう。何とも平和ではないか。
 自分たちの手で犯人の命を奪うくらいなら、仲間が殺されるくらいの方がいいのだろうか。罪のない市民が犠牲になり、家にも帰れず迷惑を被る方が、よっぽど良いのだろうか。おかしな話である。

 一度くらい、日本でも銃乱射事件か何かが起こらないと、この国の警察は変わることができないのだろうか。多くの人々が殺され、犠牲になって、初めて犯人一人の命を犠牲にしても、他の多くの人々を守らねばならないことがあるという考えに行き着くのだろうか。
 犯人の命を守るために、他の多くの人が犠牲になる。ボクはこんな考え方を、どうしてもカッコいいとは思えないのである。
04月16日付 朝日新聞の報道「「定例会見は必要ですか?」 東国原知事が会見で逆質問」へのコメント:

 テレビで見たが、面白い!

 ああいう風に、誰もが疑問を持たないできたことを、あらためて問うてみるという姿勢はいいと思う。当たり前に必要だと思われていることに、「本当に必要なんですか?」と疑問を投げかける。それは意外とできないことだ。

 そりゃあ、マスコミの人たちは、定例会見に出ることで飯を食ってるわけですし、報道というのは国民の知る権利に資する重要な仕事だ、なんて、息巻いているわけですから、不要だなんて言えるわけがない。
 でも、確かに彼も言っていたように、定例会見でなければ知事の意見が聞けないというのならともかく、毎日ぶら下がりの記者がいて、意見を聞いてくるような現状では、あえて定例会見という場を設けるまでもないのではないかという彼の疑問は、あって当然とも言えよう。

 石原さんが週に一回やっているということを、ニュースでは対比的に出していた。ただ、ボクもたまに石原さんの定例会見はMXテレビで見るのだが、あそこで出る質問は、何か社会で起こった出来事に対して意見を求める質問が多いように感じる。
 先日起こった事件について、知事はどのように考えますか。とかいうような質問が意外と多くて、それが殺人事件だったり、政治的な出来事だったり、経済ニュースだったりする。これは、どこの知事の定例会見でも同じなのだろう。だからこそ、東国原知事は、あのような発言をしたのではないか。つまり、彼が言いたいのは、そういう質問は普段から歩いているときとかにしていて、それについて答えているんだから、そんな質問をあらためてする場を設ける必要はないんじゃないですか、ということだったのだろう。

 ただ、今回の件について問題があるとすれば、定例会見の重要性を彼が見誤っているところにあるような気がする。彼は、何もないときの平時における定例会見を無駄であると見なした。実際、それは時間の無駄としか言えないような、退屈なやりとりなのだろう。しかし、定例会見の重要性が発揮されるのは、当然平時ではない。問題発生時である。問題発生時に逃げようとする知事を記者会見場に引きずり出す。そこに一つの意義があるはずである。だとしたら、知事の判断で行わないなどという前例は作るべきではないし、定例ではなくすという判断も、あまり正しい判断とは言い難いものとなりうるだろう。
 また、お役人の書いた文章を発表する場というのも、やはり必要なものである。こんなくだらないニューズと思うかもしれないが、それをやることがまた仕事だったりもするのだ。そういういろいろな立場の人のことも考えて、新知事さんには太っ腹な行動も心がけて欲しいと思う。
ISBN:4061825259 新書 深水 黎一郎 講談社 2007/04/06 ¥998

 メフィスト賞を取るという段階で、新奇なものということになるのかもしれないが、結論から言うと、微妙にいただけない作品だった。

 種明かしのところなど、ページ数まで指摘して、「ほら、どうだ。フェアにやってるだろう」という感じを出しているのだが、もともとのネタがネタだけに、それで納得できるかというと、なんだか腑に落ちない部分があるし、そもそもだまされたという感じがない。

 ミステリーというのは、意外性があって、また結論が理性的に納得できるものであればあるほど、読者は「ヤラレタ!」と思い、喜ぶのだと思う。
 当然、その理性的理解の中には、西澤氏のような異なる世界観の中での理解も含まれる。しかし、今回の作品は異なる世界であるようにも読めるところはあるのだが、その一方で、この世界における事件であるようにも読めるようになっている。そのような状態で、この作品のようにトンデモネタに持っていかれてしまうと、ボクとしては不安定な感を受ける。

 意欲的な作品であることは認められる。いかにも挑戦的で、メフィスト賞らしい作品ではあるかもしれない。しかし、プロの作品であるのかといわれたら、ちょっと金返せ感がある。作品の中に出てくる保険の話にしてもそうである。それなりに調べたのかもしれないが、もうちょっと現実の世界をきちんと調べても良かった気がするし、そういう細部の作り込みまでこだわっても、良かった気がする。作品の構成とか、言葉の使い方みたいな、ある種のミステリーファン的な視点からのこだわりだけじゃなくて、普通の小説としての視点からのこだわりも持って欲しかった。そういうところが欠けていることに、ボクはなんとなく素人っぽさを感じた。

 また、ボクはこの作品に対して、読む楽しさは感じなかった。途中からは、半分惰性で読むような時間を過ごした。これは、文章力の問題なのか、単に好みの問題なのか、どちらに問題があるのかは知らないが、どちらにしても個人的にはマイナスポイントである。

 最近のメフィスト賞は、どうも微妙なのが多いような気がする。前回のもそうだったし、イマイチ買って良かったと思える作品がなくなってきている。新人の発掘というのはそれだけ大変ということなのかもしれないが、もうちょっとうまくやってくれないと、このままなくなっちゃうんじゃないか。そんな不安さえ、ふと感じている。
04月10日付 朝日新聞の報道「学生自殺で高崎経済大准教授、懲戒免職」へのコメント:

 なんか、とてもかわいそうな話だ。

 ゼミの先生が課題を出して、提出してこない学生に、提出しなければ留年だというメールを送った。そうしたら、それを見た女子学生が、自殺をほのめかしているともとれるメールを出して、自殺した。その一連の指導に問題があったとして、担当の准教授は懲戒免職になった。

 こういった話を聞くと、自殺した女子学生がかわいそうだと思うのが通常なのだろうか。でも、ボクはそうではない。絶対にかわいそうなのは、准教授である。何しろ、彼は当たり前のことを言ったに過ぎないのだから。

 締め切り日までに課題を出さなければ留年にする。これの何がおかしいのだろうか。今回は課題だったから、こういう表現になっているが、これが試験で評価する科目ならばこうなる。

 「試験当日に試験を受けなければ、留年とする」

 これって、当たり前じゃないですか?それこそ、スポーツ推薦で入ってきた野球部の学生だって、一応試験日には現れて、何か適当に書いたりして、それで提出したって体裁は整えて、単位をもらうわけでしょ。まあ、いろいろなパターンはあるでしょうけど。
 大体、社会人になってからだって、決められた日にちまでに必要書類を作っていなかったら大問題でしょう。普通はみんな徹夜をしてでも、とりあえず完璧とは言えなくたって、それっぽい書類を作って出すもんでしょ。それを全く出さないっていう選択をするっていうのは理解できないし、ましてや自殺するなんておかしい。
 准教授がもらったメールの内容だって、別に自殺すると書いている訳じゃないんだから、相手が自殺するなんてこれっぽっちも考えていない段階で読んだら、「提出はあきらめて留年します」というメールかと思って読み飛ばしちゃうかもしれない。今の僕たちは結果を知っているから、自殺メールだと思うけど、そうとは知らない段階で読んだら、別にそれほどの内容を含んでいるとは思わないかもしれない。今の時代、訳のわからないDMも含めて、たくさんのメールが来るから、それを流し読みしている段階では、それほどのことと認識しない可能性は十分にあると思う。
 そんな風に考えると、自殺という結果を招いたことは確かに問題なのだが、そのような自殺者が出たということだけで大騒ぎをして、それで先生をクビにしちゃうというのは、それはそれで問題だと思う。事なかれ主義の招いた結果なのか。それとも、自殺した学生の親が強かったのか、知らないが、これくらいのことで懲戒免職はやりすぎな気がする。

 このところ、自殺をすれば正義になる風潮がある。それで、自殺したものをかばってやることで、自らは正しいことをしたような気になっているのだろうが、ボクはそれは違うと思う。
 自殺をすれば正義になるのならば、自らを正当化したい者は、自殺という選択肢を選ぶだろう。しかし、本当はその選択肢を選ばせないことが重要なはずである。その選択肢が最善の選択肢でないことを知らせること。それが重要なはずである。しかし、自分でどうにかしようと思わない人にとって、手っ取り早く自己を正当化する手段が自殺であるということにしてしまっては、それはいじめられた子供だって、自殺という選択肢がすぐに頭に思い浮かぶようになるだろう。それではいけないのだ。
 きっと、この事件の続報は、もう社会には現れてこないのだろうが、この准教授には頑張って次の職場を探してもらって、今度こそは、「課題を出さなければ留年」という当たり前のことをいってもクビにならないようなまともな大学で、先生として活躍して欲しいと思う。
ISBN:4062705796 単行本 綾辻 行人 講談社 2006/03 ¥2,100

 図書館で見かけて、思わず借りた本。単行本サイズなのだが、字が大きいこともあって、中身的にはすごく短くて、なんと1時間で読破してしまった。

 この本は、子供向けに書かれたということで、普通のミステリーではないし、全体としての質というか、レベルもそれほど高くない。館シリーズの一つに数えることには反対しないが、やはり大人が読むには物足りなさを感じる。そういう意味では、最近の綾辻氏の館シリーズの伸び悩みにも通じるものを感じる。

 ネタバレを避けるために、この作品の問題点を指摘することはしないが、それでもこの作品の性質や、最後のオチなどはいかがなものかと感じられた。犯人は読んでいればなんとなくわかると思うし、ボク自身もどうやってやったかといったところに主眼を置いて読んでいた。しかし、それに対する答えはあまりに稚拙に感じられ、また唐突にも感じられた。個人的にはもうちょっとキチッとした作りを期待していたし、納得できる最後を期待していたのだが、見事に裏切られた。
 最後の終わり方も疑問を残すような終わり方で、この後どうなるのだろうといったモヤモヤ感がある訳だが、それがどのような世界観のもとで考えればいいのかがわからない分、より一層イライラさせられた。
 そして、最後の作者による読者へのあとがきが、より一層ボクを失望させた。子供向けということを、作者がスランプの言い訳に使っているように感じられたからである。きっと、このネタを館シリーズとして大人向けに書くことはできないだろう。だからこその子供向けなのだろうが、それでも大人向けのネタを子供向けに使うくらいのことをして欲しかった。大人向けには使えないネタだから、子供向けということで使うというのではなく、そんな手抜きのない作品で勝負して欲しかった。そんな意味でも、ボクはこの本を読み終わって、なんかスッキリしない気分になったのであり、それが思わずこんなところに文章を書いている理由でもある。

私が彼を殺した

2007年3月16日 読書
ISBN:406182046X 単行本(ソフトカバー) 東野 圭吾 講談社 1999/02 ¥840

 図書館で見かけ、借りてきて読み始めたのだが、なんとなく読んだ気もするし、読んでない気もする。俺も年を取ったもんだ。昔はこんなことはなかったのになぁ……
 なんてことを思いつつ、とりあえず最後まで読了してみた。

 読者への挑戦と言わんばかりに、最後まで犯人を明かさないというチャレンジは、ある意味賞賛に値する。実際、さらっと読み終わった段階で、ボクは犯人がわからなかった。
 ただ、アイデアの斬新さはスゴいにしても、面白かったかと言われると、それがまた微妙。個人的には再読をして、犯人を見つけようという気にはならなかった。
 結局、犯人はわからなかったので、ネットで検索をするハメになったのだが、その中で誰かが書いていた、解答編を読みたかったという意見には、共感を覚えた。

 解答編をつけると、普通の推理小説になってしまう。だから、彼はそこをなくして新しい試みをしたかったのだろうが、これはやはり一部のマニアをのぞけば、かなり厳しい試みであったのではなかろうか。
 というのも、そこまで真剣に推理小説を読み込む人というのは、それほど多くはないと思うからだ。

 さらっと読んでいく中で、「もしかしたら」と思うアイデアがなんとなく浮かぶ。しかし、明確な形にはならない。ただ、その『なんとなく』が最後には正しい解答の一部を含んでいたことを知り、それで「俺は解答がわかった」という気になる。そのくらいの方が、推理小説というのは面白いのではないかという気がする。

 読者というのは、本当の探偵になりたいのではない。探偵になった気分を味わいたいだけなのだ。そういう意味では、多くの読者にとってはニーズを取り違えた作品になってしまったのではないかという気がするし、その一方で「こんな作品が読みたかった」と拍手喝采している読者もいるであろうことは想像に難くない。
 ただ、残念なのは、ボク自身はどちらかというと前者だったことであり、また同様の試みがなされた場合には、挑戦してみたいとは思うものの、半分興味がなかったりもしてしまうのである。
ISBN:4480063471 新書 パオロ・マッツァリーノ 筑摩書房 2007/02/06 ¥735

 なんか書店で人気があるみたいに書いてあったんで買ったんだけど、個人的には大ハズレ。何も得るものはなく、面白くもなく、なんだかよくわからない本だった。

 新書といえば、ある程度はきちんとした論説文のようなものを想像しがちであるが、そのわりには、どうも考えがあまりまとまっていない感じで、なんか書いてる人って頭が悪そう。本当だったら、もっときちんと『ツッコミ力』というのを書くべきだった気がするんだけど、書きたいことを適当にちりばめている感じで、それを伝えようという意欲が感じられない。きっと、この人は書きたいことを書き連ねていっただけなんだろう。だから、伝えるという気はあまりない気がする。

 それに、なんとなく面白く書こうという感じは伝わってくるんだけど、それがなんだか年配の教授が、「欧米のユーモアっていうのはね」とか、「そもそも笑いというのは……」とか教えながら、ギャグやダジャレを言ったりしているあの感じ。
 言いかえれば、笑いのとれないまじめな人が、笑いというものをまじめに研究して、「笑いとは、緊張の後にくる緩和である」みたいなことを論じた上で、こういう風にすれば理論的には笑いが起こるはずだ、ということで書いたようなイメージ。
 だから、面白がって欲しいんだろうな、とか、笑って欲しいんだろうな、といったことは感じるものの、なんか笑えないし、面白くもない。本当に読んでみて、「なんだかなぁ〜」というほかなかった。

 これって今も売れているのだろうか。題材と題名はいいと思うので、これをもうちょっとうまく書いたら、もっと売れると思うのだが、やっぱりこの人には無理なんだろうなぁ……
02月16日付 朝日新聞の報道「虚偽出生届で起訴の中国人女性 一転、適法に 大阪」へのコメント:

 民法上、離婚から300日以内に生まれた子は、前の夫の子と推定される。そして、その推定を覆すためには、裁判が必要となる。そのため役所では、実際には違う男性との子供でも、とりあえずは前の夫との子供として出生届を出すように指示するらしい。ところが、その通り提出したら、虚偽記載だとされ、起訴されたということだ。
 実際には、前の夫の子ではなかったわけだから、事実を記載しなかったといえば、確かにその通り。しかし、検察官が民法の規定や、それに基づく実務を全く知らなかったというのは、本当におそまつ。「えっ、本当に司法試験に受かったの?」と聞きたいような話である。

 だいたい、こんな規定があることは、今となっては本当にナンセンスである。離婚をするということは、その前に夫婦の仲が完全に冷えている場合が多いわけで、その場合にはある意味で浮気状態が女性側に発生していることは、ままあるに違いない。だとしたら、離婚後に生まれた子供は、むしろ他の男の子供である可能性が高いとも言えるわけで、そういう意味では、前の結婚からの推定なんて及ぼす必要はないのである。それなのに、勝手に推定されるなんて、前の夫にしては迷惑な話であろう。
 今回の事件も、民法の規定なんか知らない前の夫が告訴したことから始まったらしく、相手が中国人女性であったことからすれば、財産目当てに嘘を書いたと考えたのかもしれない。でも、それにそのまま乗ってしまった検察官は、かなりのアホである。大体、上司も全く気がつかないというのもおかしいし、途中でチェック機能が働かないというのも変である。

 この事件を扱った検察官は裁判所で、どんな気持ちだったのだろうか。弁護士に指摘されたとき、「やっちまった!」と思ったに違いないのだが、それにしてもあまりにつまらない失態に、きっといろいろなことを考えたのではないだろうか。人の人生を左右することもある裁判である。被告人に大きな犠牲を要求するのであればこそ、検察官も大きな犠牲を負う覚悟で、仕事に臨んで欲しいものである。
ISBN:4061824775 新書 古野 まほろ 講談社 ¥1,680

 いわゆる流水大説が好きな人ならば、いけたのかもしれない。しかし、あいにくボクは流水大説が苦手だ。だからだろう。ボクはあまり面白いとは思えなかった。

 独特の世界観を持つことは評価しよう。謎解き部分も頑張っていたんじゃないだろうか。しかし、読者をこの世界にどれだけ引き込めたのだろうか。京極夏彦ばりの厚い本を、一気に読ませるだけの力が、この本にあったのだろうか。少なくともボクは、あまり入り込めなかったし、結局この本を読み進めた一番の原動力は義務感だった気がする。

 入り込めない理由としてはいくつか考えられるが、その中でもボクにとって大きかったものをあげるとすれば、まずは変な外国語ルビの多用。そして、内輪だけでわかる専門用語や専門知識の多用。そして最後に、それぞれの登場人物のイメージの薄さではないだろうか。
 キャラクターとしては、それぞれ特異な人物として描かれているのだが、なぜか人物が目に浮かばない。そして、イメージができない分、それぞれの人物の位置づけがイマイチ理解できない。キャラクターと雰囲気が理解できない分、最後にネタ晴らしがあってもピンとこない。
 結局、最後まで読んでみても、なんだかピンとこないし、やられたとか、スッキリしたとかいう感じもない。むしろ、やっと終わったというのが、正直な感想というべきだろうか。

 ボクが思うに、このネタであれば、半分ですんだように思う。というか、普通は半分で書くのではないだろうか。それをこの作者は、なんだか知らないが、やたらと引き延ばしまくって、これだけの大作に見せかけてしまった。実際のネタは、その半分のボリュームにしか値しないのにである。だから、飽きてくるし、なんだか全体にぼやけてつまらなくなるし、最後までいっても面白いと思わないのである。

 実際、作者に読ませるだけの筆力があれば、同様のことをしても大丈夫だったのだろう。しかし、残念ながら作者にはそこまでの力はなかった。だから、まとめればとても短くなる部分を、何十ページも使って書いてみたりしてしまった時、そのあらが読者にもわかってしまった。それは、本来であれば、最悪の事態であり、デビュー作だから許されるとしても、今後は厳しい批判の目にさらされても仕方のないことであろう。

 浦賀さんのような世界観を使い、流水大説のようにダラダラと書いて、島田さんのように歴史的事実も交えながらその裏にあったとされる謎を解く。これはこれで面白いのかもしれないが、これを完成させるには、やはりもっと読ませるだけの筆力が必要であろう。
 次回作がどのようなものになるのか、非常に楽しみなところであるが、早々に消えたメフィスト賞作家の仲間入りはしないように、頑張って欲しい。
02月02日付 朝日新聞の報道「中2男子がマンションから飛び降り死亡 千葉・松戸」へのコメント:

 いじめっ子が自殺したと言うが本当なのだろうか。だとしたら、これはあまり問題とすべきではないし、教育委員会を始め、学校の対応をあげつらうのは正しい反応ではない。

 今、問題となっているのは、いじめられるものたちの辛さである。いじめられて、死のうと考える者がいる中で、ようやく世の中がいじめる者たちを非難するようになった。ここで、いじめる者たちを責めてはいけないなどとなっては、結局そのしわ寄せはいじめられる者たちにいってしまう。それではいけないと思う。

 いじめる者たちが、非難をされて初めて、いじめられる者たちの辛さを知る。そしてそのとき、その自分自身に向かってきた辛さがいじめられる者たちへの逆恨みとなって、自殺をしてやろうなどと考える。こういった反応はあり得ることではある。しかし、だからといって、彼らに対して同情をし、擁護するようではいけない。なぜならば、彼らはあくまでも加害者なのである。

 最近、被害者の権利などという者が注目され、加害者にとっては厳しい環境が続いている。この傾向を貫くとすれば、今回の事件についても、いじめた側の人間については、厳しい目が向けられても仕方がないだろう。ただ、それが中学生であるというだけで、擁護すべき対象となるのであるとすれば、それはちょっとおかしいのであって、むしろ同じように考えることこそが正しいのではないかとボクは思う。
01月28日付 朝日新聞の報道「「あるある」番組本、大手書店から撤去の動き」へのコメント:

 レタスの話が出てきて、急に全てが信じられなくなってきた。何しろ、あんな昔からネタを捏造していたというのだ。しかも、インターネットで調べてみると、もう完全に事実として扱われている。元々は、ディレクターが思いつきで作り、実験結果も捏造したにもかかわらず、もう世の中ではレタスはその中にあるラクッコピコリンによって安眠効果があることになっている。そういう意味では、この番組がもつ影響力は、とてつもなくすごい。

 実験をした先生によれば、後に同じネタを使いたいと言ってきたディレクターがいて、本当のことを言ったところ、自分で再度実験をし、効果がないことを確認した上で、放送をやめたということがあったらしい。そういう話を聞くと、まじめに番組作りをしている人がとてもかわいそうになってくる。自分で確認して、放送を取りやめたディレクターと、番組が成り立てばよいとして、捏造したディレクター。この差はあまりにも大きい。

 このレタスのネタは、前のテレ東の捏造よりずっと前のことである。ということは、この制作会社は捏造をずっとしてきたことになるのであり、ニューテレスの責任は重い。
 しかも、今回辞任したニューテレスの社長は、前回のテレ東の時に辞任した人と同じだという。つまり、責任を取りますと言って辞任しておいて、再度就任しているのである。これでは、会社の体質は変わりようがないし、反省だってするわけがない。だからこそ、ネタの捏造は続いてきたのであり、止められなかったのであろう。

 ただ、今回のレタスの件は、健康番組全般に対して大きな波紋を投げかけそうな話である。最初この問題が明るみになったとき、朝ズバッではみのもんたが、おもいっきりテレビではありえないようなことを言っていたが、ネットで検索をしてみると、どうやらこのレタスのネタについては、やっていたらしいことがわかった。つまり、みのもんたは偉そうなことを言っていたが、実際にはあるあるの捏造したネタを、よく検証もせずに放送していたことになるのである。ここに、おもいッきりテレビのいい加減さがうかがわれる。
 捏造をしたディレクターに、非常に大きな問題があることは確かである。しかし、その後にこのネタがこれほどまでに真実らしく取り扱われたのは、明らかによく検証もせずに焼き直して放送をしてきた、いい加減なディレクターの存在によるところも大きいだろう。
 本来であれば、おもいっきりテレビのディレクターだって、きちんと話を聞いて、先のディレクターのように放送を取りやめる方向に行っても良かったはずである。しかし、おもいっきりテレビのディレクターは、どこまで裏を取ったのか知らないが、あるあるの捏造したネタにそのまま乗って放送してしまっている。だとしたら、今回の納豆だって、バレずにいたら焼き直して放送した可能性がある。そういう意味において、彼らはもう、あるあるのディレクターを批判できない。

 あれだけ毎日、毎週放送しなければならないとしたら、それはネタが続くはずがないことはわからなくもない。しかし、やはりいくら数字がとれるとしても、捏造しなければならないほど困ったときは、潔く番組を終わるべきではないだろうか。かつて、TBSのスパスパが終わったときは、とても残念に思ったが、今から考えるとあれは正しい判断だったのだろう。捏造してまで放送を続けるのは重大なルール違反であり、放送局としてあってはならないことなのである。

 今のところ、まだ最終的な処分は決まっていないようであり、今後どのような展開を見せるのか、まだわからない。しかし、たとえ関連会社といえども、制作会社には厳しい対応をすべきであるし、身内をかばうようなことがあってはならないだろう。そして、他の放送局も他山の石としてはならないのであり、むしろ自局の健康番組について、再検討をすべきであろう。みのもんたのような、安易な批判は慎むべきなのであり、彼のように自分のところは大丈夫だなどと考えているようでは、きっとこういった問題はなくならないのではないだろうか。
01月28日付 日刊スポーツの報道「東知事公舎入居に二の足、豪華すぎる」へのコメント:

 東知事は、全部において豪華すぎるとして、自分には不釣り合いだと使わない方向に持って行きたいらしい。しかし、もったいないというのはどういうことなのか、もう一度考えた方がよいのではないかと思う。

 ボクが思う「もったいない」は、今あるものを最後まで使い続け、その製品の効用を全うさせることである。つまり、壊れるまで使い続ける。または、使えなくなるまで使い続けると言うことである。
 しかし、彼の言い分は、金額が高いものはもったいないので使わない。安いもので十分ということであるようだ。つまり、そこで使われる「もったいない」は、「高価である」ということを意味するに過ぎないのである。

 彼が「もったいない」という言葉を使っているわけではないのだが、彼には是非もう一度、「もったいない」という精神を学んで欲しいような気がする。
 有権者へのポーズとして、高価な机や椅子を使わずに、事務机とパイプ椅子を使いたいというのなら、それはそれでいいのであろう。しかし、そのとき今までの机と椅子はどうなるのであろうか。公邸にしてもそうである。わざわざ他にマンションでも借りるとなれば、そこに警備をするための設備を設置したり、いろいろと余計な経費もかかるであろう。だとしたら、今ある公邸を利用する方が得策とも思えるのであり、実は経費削減にもなるのではないかとも思えるのである。

 有権者をはじめとする、人々へのアピールに力を入れるのならそれはそれでよい。しかし、中身がなければ、今までの芸能人知事と同じになってしまう。もしも、彼が次期以降も知事であり続けたいと思うのなら、外面だけでは不十分であろうし、もっと中身のあることをやる必要があると、ボクは思う。
01月26日付 朝日新聞の報道「プリン30万個回収へ 細菌混入か オハヨー乳業」へのコメント:

 これからこういう風になってくるのだろうか。それとも、一時的なものなのだろうか。でも、これからの時代は、本来こうあるべきだと思う。

 不二家の事件により、こういった洋菓子は細菌検査の結果が出るのが遅いため、結果が出る前に出荷されるということが明らかになった。
 今回の件も、苦情が出ているような時点であるにもかかわらず、細菌混入のおそれがあるということで回収されているというのは、そういった意味であろう。
 だとしたら、今までであればもみ消して終わりだったのではないか。しかし、不二家の例を見て、後から発覚することの不利益を初めて知ることになった。それで、早期に回収することになったのであろう。

 本当に変なものを出したくないと思ったら。
 本当にお客様にきちんとしたものを提供したいと思ったら。
 きっと、こういったときの対応は一つに決まっているのだ。それができないのは、不祥事をしでかしたことにより、自社の評判を落としたくないとか、社内において責任問題に発展させたくないとか、きっとそういうことなのだ。

 だとしたら、そういう余計なことは考えずに、発表し、念のため回収するくらいがいい。間違っても、せいぜい幼児がおなかをこわすくらいだから大したことはないなんて、言ってはいけない。幼児が食べてもおなかをこわさないくらい安全であること。これは一つのブランドにおける重要な構成要素なのだ。

 不二家のことを、笑ってみている会社が、まだまだあるような気がする。第二の不二家が出てくるかは、経営者の感覚によるのだろうと思うが、ただしくあろうとすることこそが、経営者の正しい感覚であると当たり前に言われるような時代が来ることを望みたい。
01月24日付 朝日新聞の報道「学力テスト、昨年と同問題 東京都調布市」へのコメント:

 この事件、調布市が外部委託した会社が問題を作り、データ作成などを請け負っていたらしいが、この会社がとても怪しい気がする。

 このテストはどうやら去年から始まったらしく、会社の言い分としては、毎年同じ問題を使うことで、その年の学力を絶対的に評価しようということらしい。
 確かに、同じ問題を毎年解かせれば、去年の人たちとの比較も容易にできるし、データの信頼性も高そうに見える。しかし、果たして本当にそうだろうか。

 問題は配られず、返されないとしても、受験生の中には確実に覚えている人たちがいる。だとしたら、「去年はこういう問題が出たよ」とかいった情報が、塾などを通じて受験生たちにもたらされる可能性は非常に高い。
 これは、特定の塾に通っている人たちが得をすることになりやすく、また、塾に行っている人と行っていない人の間の格差の拡大に役立つことになるだろう。ましてや、2年連続で同じような問題が出たとなれば3年目もということになるだろうし、3年連続なら4年目もということになる。そうなってくれば、再現問題集が作成されるであろうことは確実であり、それは一部の塾でのみ出回ることになるだろう。

 ボクが問題だと思うのは、事前チェックを怠った調布市の怠慢さも確かにある。しかし、それにもまして、そのようないい加減な仕事で調布市からお金を巻き上げようとしている、その会社の姿勢というものを、非常に疑問に思う。
 どんな会社なのかは知らない。しかし、同じ問題を使い回して、それで金を取ろうなんていうこと自体が、あまりに非常識で信じられない。だいたい、学校の試験だってあえるのが通常であり、先生たちは、どんな問題を出すかで非常に頭を悩ませるのである。それを、年をまたいでも比較しやすくするためなどという理由で、同じ問題を使い回そうなどというのは、問題である。通常、違う問題を使いながら、それでも比較をしたりするわけで、そういうことをやろうと思えばできるはずである。もしも、ノウハウがないのなら、これは耐震偽装の姉歯と同じであり、まさにそれを信頼して仕事を任せた方は、いい迷惑である。

 姉歯の時もそうであるが、どうしてできないことがあるのなら、勉強しようとしないのだろう。姉歯だって、経済設計のノウハウを研究して、他の建築士のように、同じかそれよりも少ない鉄骨量で強い建物を造ることもできたはずである。しかし、彼はそのような勉強をするでもなく、むしろ偽装という道を選んだ。今回のテスト会社も、問題を毎年変えながら、他の年度の生徒との比較を可能とする方法はいくらでもあるはずだ。それを勉強しないで、しかも自分が手を抜くために、同じ問題を使い回して、しかも、そんなくだらない言い訳をするなんて、本当に姉歯なみの低レベルな脳みそといわざるをえない。

 こんな業者を信頼してしまった調布市もかわいそうだが、こんな時期になって騒がれている受験生も、かなりかわいそうなのであり、こんな訳のわからぬ事件に惑わされることなく、うまく合格してくれることを祈るばかりである。

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