04月28日付 朝日新聞の報道「各地で追悼、葬送の式典 JR脱線事故」へのコメント:

 遺族の方々の気持ちを考えるとやりきれない。いや、それ以上に電車に乗っていただけで死んでしまった人たちのことを考えるとやりきれない。
 ボクだって、明日電車に乗っていて死ぬかもしれない。そう考えると、それを防ぐことは実際問題としてできないのだが、ちょっと怖くなる。

 運転手に対して、ボクはとても同情的だ。そして、状況を知れば知るほど、ボクは彼に同情的になる。3分に1本の割合で来る電車。これはとても便利だと思う。しかし、その電車の定時運行が、すべて人間の手によって成し遂げられているとしたら、それはとても怖いことではないだろうか。
 人間は機械ではない。まったく同じ操作を繰り返すことはできない。それより何より、1秒単位できちんと運行させなければならないなんて、現実問題として無理だ。もし、それをやれと言う人がいるのなら、ぜひチャレンジしてみたらいい。やり方は簡単だ。時計を見ながら、自分の家の周りを一定の時間で散歩するのだ。当然、スピード違反はできないから、走ってはダメだ。ひたすら歩いて、3分なら3分で歩く。しかも、1秒だって遅れずにだ。足でやったって大変だと思う。じゃあ、それを自転車でやったらどうだろう。自動車でやったらどうだろう。きっと運転手の気持ちが少しはわかるのではないだろうか。
 そんな定時運行をさせようとするのなら、それはコンピューターに委ねるほか無いだろう。多少の遅れが生じても、コンピューターなら無理のない程度に全体を動かして、うまく取り繕ってくれるに違いない。しかし、あの路線は赤信号を無視したときだけに止まる、非常に古いタイプのものを使っていたという。山の手線なみの過密ダイヤを組みながら、赤信号で止まれということ以外は、すべて現場の運転手が自己責任で行っていたことになる。ハッキリ言って異常だ。
 そして、悪名高き「日勤」。あれの目的はなんだろうか?厳罰主義で、すべては解決するのだろうか?ミスというのはうっかりやるものである。うっかりやるからミスなのであり、わざとやったのならそれこそ事故につながる大問題であり、犯罪にもなりかねない。そのうっかりミスを、その人が二度と受けたくないと思うような社内いじめにも似た行動によって解決しようなど、誰が考えたのであろうか。
 例えば、あなたが寝ているときにいびきをかいていたとして、周りの人が迷惑に思っていたとする。そのとき、いびきをかくたびに寝られないくらいに「周りに迷惑をかけていることがわからないのか!」と数人で取り囲んで怒鳴りまくり、ひたすら数時間ごめんなさいと言わせ続けたとしたら、それによりいびきはなくなるのだろうか。ボクが思うに、彼は不安により不眠症になりこそすれ、いびきが無くなるということはないだろうと思う。つまり、自らが意思決定を行って行動したものではない以上、本人を責めたところで、行動があらたまる訳ではないのである。意思決定を行うのならば、そこで他の選択肢を選択することができる。しかし、うっかりというのは他の選択肢が取り得ない。それを、当人の意識に訴えかけたところで、なくなることはないのである。
 これは本人に責任をとらせなくて良いという話ではない。しかし、問題が発生したときの解決方法としては、ほとんど意味がない行動をやっていたのではないかと思うのである。そして、今回はそのことが逆効果になり、多くの人命が失われ、運転士という夢を追った青年の命と名誉も失われた。なんて哀しい話だろう。
 民営化によって、コスト意識がでたことはよいことだと思う。しかし、利益に直接つながらないからお金をかけないというのは、大きな問題である。問題が起こるたびに、現場の人間を悪者にして、それで責任問題をすませるというのは、確かにお金はかからないし、上の人間の責任は薄まるしで、いいことづくめかもしれない。でも、それで社長も「高見くんとかいう、新人の使えないダメ運転手が、オーバーランを起こした上に、勝手にスピードを出して事故まで起こしたんだから、ボクは関係ないし、むしろとりあえず給料を返上させられるだけでも迷惑を被っているんだから、これで責任なんて十分とってるし、辞める気なんか当然サラサラないよね!」という感じだとしたら、部外者ながらも、ちょっと腹が立ってきたりする。

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