05月03日付 朝日新聞の報道「JR西日本社長が現場で献花 「今頃なにしに」の声も」へのコメント:

 ボクはいわゆる報道という分野における”マスコミ”というのはあまり好きではない。ジャーナリストとか、ジャーナリズムとかいうものを振りかざす人がしばしばいるが、そういう人たちの意見というのには、特にあまり賛同できないことが多い。
 言葉を正確に使うとすれば、伝えようとする熱意を否定する気はないが、ペンの暴力になりうることをわかっていながら追及する態度は気に入らないということになるだろうか。ボクはなんだかそういう匂いを感じたとき、マスコミの人間たちに対して非常に反感を感じてしまったりするのである。

 小林よりのりという漫画家がいる。彼の著作にゴーマニズム宣言という本があるが、ボクは初期において非常にその本を気に入り、新刊が出るたびに買っていた。しかし、だんだんと買う気が失せてきて、途中からは見向きもしなくなってしまった。
 それはなぜか?
 理由は簡単で、だんだんと人々がその本を注目するようになってきて、本人もそれを意識しだしたからである。
 本人が自分の言葉の影響力を意識し始めたとき、それは下の立場から権力を突き上げるのではなく、権力を下に見た上で、高所から批判する書きぶりになってくる。その瞬間、ボクは、彼らの書く文章がペンの暴力となりうる危険性を生じ始めてくるのではないかと考えている。

 こんなことを延々と書いたのは、だんだんとこの脱線事故に関する一連の報道が、担当者いじめに似た状況になり始めているように感じるからだ。非難すべきところを非難するのは正しい。しかし、重箱の隅をつつくような話をして責め立て、まるで自分は正義だというかのように追及して、それを放送するというのは、ボクはなんだか見ていて気分が悪い。
 そんなわけで、今日は若干JR擁護論的な立場から書いてみたいと思う。

 マンションの住人で、社長が献花に来たのなら、マンションも回って挨拶しろと言っていた人がいたが、ボクはそこまで要求するのはやりすぎな気がする。正直な話、ここら辺は意見が分かれるところであろうとは思うのだが、ボクはJRが行っているマンションの住民に対する処遇は、十分なレベルに達しているのではないかと思う。当日はすぐにホテルを用意し、その後は代わりのマンションを用意する。これだけやっているのだから、よくやっている方なのではないだろうか。そして、当然のことながら、担当者などは謝りに来ているはずであり、何かあったときに「社長を出せ!」というのは常套手段ではあるが、実際にあれだけの大会社の社長がすべてにご挨拶なんてできるはずがないのであり、第一、被害者の遺族や、いまだ入院中の被害者本人にだって全部会っている訳ではないはずなのに、それをさしおいて、ただ自宅マンションの一階に電車が突っ込まれただけで、自宅自体が壊れた訳でもなければ、自分の身体にケガを負った訳でもない人々が、悲鳴とかを聞いたから精神的につらいなんて言っているだけで、なんだか実際の被害者や遺族と同列のような顔をしているのは、ちょっと行き過ぎであるように感じられる。
 当然、それらマンションの住民の補償というのは考えられなければならない。しかし、担当者レベルの謝罪ですませてよいレベルと、社長が直々に訪問して謝らなければならないレベルがあるとすれば、明らかにあの人たちは担当者レベルで十分なレベルであり、社長が一軒一軒を訪問しなければならないほどの問題ではないと思う。社長がまず第一に訪問すべきは、あのような人たちではなく、もっと重大な、自分の未来を失い、夢を失い、これからの人生において大きなものを背負って生きていかなくてはならない、そんな人たちの方であって、それこそマンション住民に会っている時間があるのなら、そういう人たちに1人でも多く会うべきなのではないかと、ボクは考えるのである。
 そういう意味において、被害者の声を伝えることは大切であるが、それがすべて正義だというのは、それはそれで間違いではないかと思う。それは交通事故の一方当事者の話だけをきくようなものであり、そういうときに相手が何もしてくれないという言い分を、そのままうのみにすることが必ずしも正しくないのと同じなのである。

 また、記者会見においても、あまり生産性のない質問や追及がなされていることがよくある。そういうときの記者の声を聞いていて感じるのは、異常なまでの高揚感であり、自分は正義だという自負である。しかし、どうなのだろう。かのフジテレビやニッポン放送だって、自分が取材の対象になったときはモノを語ろうとしなかったり、あまりよくない対応をしていたりしていたのではないだろうか。つまり、ボクが言いたいのは、その立場におかれた人間が、どういう行動を起こすかというのは、環境に左右される部分もあるのであって、そういう意味においては、自分がその環境におかれた場合にするであろう行動が、今のJRで問題となっている行動と本当に違うのかをよく検証してみる必要がある気がするのだ。そして、それが本当におかしい場合には追及すべきであり、まあ仕方がない行動である場合には、問題としつつも個人を責めないという態度があってもいいのではないだろうか。

 なんだか難しいことを書き始めてしまった気がしているが、要は個人を責めるべき部分と、会社におけるシステムというか、ソフト面というか、あえて言うなら「人格」とでも言うべき要素を責める部分とを分けるべきではないかということである。そして、それは一般社員の行動はもちろんのこと、社長個人の行動であったり、取締役個人の行動であったりしても同様であって、あの大事故の混乱の中でなすべきことをやったかどうかというのは、事後的に判断されるべきではなく、その場において何が可能であったか、という観点から考えるべきなのである。
 しかし、現実の報道においてはそのようには考えられていないのであり、ただ単に事後的な理想論から批判を加えている。その方がテレビとして面白いのはわかるのだが、それならばバラエティーとしてのニュースを自認すべきであり、それこそジャーナリズムだとか、報道だとかいう言葉を使う必要はないと思うのだが、まあこんな意見に賛同してくれる人はほとんどいないんだろうね!

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