上司というのは、独裁者ではない。確かに、部下が上司の指示に従わないとしたら問題であると思うし、それによって仕事に差し障りが生じたとしたら、それは処分の対象となりうる。しかし、意見を言ったことで処分をされるとしたら、それは単なる私怨であり、ある種の言論の自由を封じるものとも言えよう。

 民間企業で社長に意見ができるのか、と知事は言う。しかし、間違った方向に会社の経営が進んでいた場合、相手が社長であったとしても、諫めるのが正しい部下のあり方であろうと思うし、それは受け入れる度量がトップには求められると思う。

 知事は、周りをイエスマンで固めたいようだ。しかし、それは間違いの元であることを、歴史は示していると思う。今までにも、イエスマンだけで周囲を固めたことにより、間違った方向へ進んでしまい、つぶれていった例はいくらもあるはずである。
 いわゆる反対勢力を、ふところに抱えることは危ない。しかし、反対意見を言う自由は、与えてもしかるべきではないだろうか。私はそう思う。

 部下にはいろいろな意見を持つものがいる。それを主張するのは、私は自由だと思う。当然、経営方針などについて、最後の決断を下すのはトップの役割である。したがって、部下の意見を聞き入れるかどうかは、そのトップが決めればよい。しかし、その前に様々な部下の意見を聞いてみる。そして、良いものは取り入れたり、自分の考えに問題があれば修正する、といった程度の柔軟性は、トップには求められてしかるべきではないだろうか。

 最近、日本人はやたらとリーダーシップという言葉に踊らされている。しかし、ここで冷静にならなくてはいけない。リーダーシップやカリスマ性の先にあるのは、ある種の独裁である。イエスマンに固められた集団は変化に対応できず、トップの判断ミスが、組織の崩壊にまでつながってしまうことがある。ヒトラーの例を出すのに問題があれば、経済界でも堤清二氏のセゾングループや、中内功氏のダイエーグループの例を考えてみれば良いだろう。ビッグネームになりすぎたトップを抱えてしまうと、周囲は意見が言えなくなる。それは、間違いを正す自浄作用さえも失わせてしまうのである。

 今、大阪府は、橋下知事の独裁体制になろうとしている。知事は、大阪府民の支持の下、独裁体制を敷こうとしている。もともと、知事は大統領制に近い制度であるから、独裁制に近いものとなりやすいところがある。ただ、それでいいのか。府民の支持があれば、果たしてそれで良いのか。私は、法律家としての橋下知事に、あらためて聞いてみたい。

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