ニンギョウがニンギョウ
2005年9月12日 読書
ISBN:4061824538 新書 西尾 維新 講談社 2005/09/06 ¥1,575
今月の講談社ノベルスの新刊はなかなか大漁で、思わず買いまくってしまったのだが、その中からまず週末に、と選んだのがこの作品。
正直な話、はじめて見たときは、文庫本並みの薄さしかない本が1,500円(税別)もするので、ボクはとても驚かされた。しかし、その本はよく見ると箱入りで、印刷や紙など装丁には非常に凝っており、作者がこれだけこだわった装丁をしているということは、文庫本になったときに、普通の装丁で読んだのでは味わえない何かがあるのかもしれないと考えて、思い切って買ってみた。
読んだ感想としては、中身も装丁や値段に負けないインパクトがあり、なかなか面白いと感じた。読み進めていくうちに妙な世界へと引き込まれていき、気が付くとページが進んでいる。現実世界とは違う世界観や、所々にあるちょっとした言葉が、「これって、どういう意味?」と考えさせてくれ、気が付くと自分なりの妙な推理を展開したりしている。そういう意味では、この作品もまたひと味違ったミステリーと言え、それはそれでありだと思った。ただし、それに対する明確な答えは最後までない。ここで描かれている妙な世界に対する謎解きを、作者は行っていない。だから、読み終わったときの頭の中は『?・?・?……』といった感じだ。
この本の問題点は、まさにそこにある。最後の直前まで面白いのだが、ラストの終わり方が微妙なのだ。だから、せっかく面白く読み進んできたものが、最後にけげんな顔になってしまい、あとがきを読み終えたときには、値段の高さが非常に痛切に感じられてしまう。
昔、中島みゆきが『夜会』というコンサートと演劇の融合版のようなことをやっていたとき、演劇部分のストーリーに伏線をたくさん張ったりして様々なメッセージを込めたにもかかわらず、お客が表層だけを見てしまって、作者のメッセージを読み取ることができず、それを不満に思った作者があとから小説版を出したりして謎解きをしたということがあったが、この本を読み終わったとき、ボクはそんなことをふと思い出した。読者が読み取ってくれると考えて、いや、そんなことは考えていないのかもしれないが、様々な比喩やロジックを駆使して表現をするのだが、作者が一人で突っ走ってしまって、気が付くと読者が置いてきぼりになっている。だから、あとから作者が「こういうつもりでこのように書きました」と解説してくれると、ボクも驚かされるのかもしれないが、作品単体ではなかなか理解できない。文学の外にあった人間が、ふと文学的になるのも良いのだが、外から思う”文学”はやはり本物の”文学”ではないのだろう。本物の”文学”となるためには、もうちょっとシンプルにする必要があったのではないだろうか。中身も表現ももうちょっとシンプルにして、作品世界について、もうちょっと読者に教えても良かった気がする。
また、装丁もどこまでこうする必要性があったのか疑問だ。何か深い意図があったのかもしれないが、少なくともボクには伝わらなかった。値段を上げるためだけではないとボクは信じたいのだが、そんな気さえしてしまう。
『表現』をしたい気持ちはわかるのだが、やはり『伝える』ということも重要だろう。この本は書店に並んで売られるのであるから、読まれるということはもっと意識されてしかるべきだと思う。西尾ファンの一人であるボクとしては、読者に迎合する必要はないとしても、もうちょっと読者に親切であって欲しかった。
今月の講談社ノベルスの新刊はなかなか大漁で、思わず買いまくってしまったのだが、その中からまず週末に、と選んだのがこの作品。
正直な話、はじめて見たときは、文庫本並みの薄さしかない本が1,500円(税別)もするので、ボクはとても驚かされた。しかし、その本はよく見ると箱入りで、印刷や紙など装丁には非常に凝っており、作者がこれだけこだわった装丁をしているということは、文庫本になったときに、普通の装丁で読んだのでは味わえない何かがあるのかもしれないと考えて、思い切って買ってみた。
読んだ感想としては、中身も装丁や値段に負けないインパクトがあり、なかなか面白いと感じた。読み進めていくうちに妙な世界へと引き込まれていき、気が付くとページが進んでいる。現実世界とは違う世界観や、所々にあるちょっとした言葉が、「これって、どういう意味?」と考えさせてくれ、気が付くと自分なりの妙な推理を展開したりしている。そういう意味では、この作品もまたひと味違ったミステリーと言え、それはそれでありだと思った。ただし、それに対する明確な答えは最後までない。ここで描かれている妙な世界に対する謎解きを、作者は行っていない。だから、読み終わったときの頭の中は『?・?・?……』といった感じだ。
この本の問題点は、まさにそこにある。最後の直前まで面白いのだが、ラストの終わり方が微妙なのだ。だから、せっかく面白く読み進んできたものが、最後にけげんな顔になってしまい、あとがきを読み終えたときには、値段の高さが非常に痛切に感じられてしまう。
昔、中島みゆきが『夜会』というコンサートと演劇の融合版のようなことをやっていたとき、演劇部分のストーリーに伏線をたくさん張ったりして様々なメッセージを込めたにもかかわらず、お客が表層だけを見てしまって、作者のメッセージを読み取ることができず、それを不満に思った作者があとから小説版を出したりして謎解きをしたということがあったが、この本を読み終わったとき、ボクはそんなことをふと思い出した。読者が読み取ってくれると考えて、いや、そんなことは考えていないのかもしれないが、様々な比喩やロジックを駆使して表現をするのだが、作者が一人で突っ走ってしまって、気が付くと読者が置いてきぼりになっている。だから、あとから作者が「こういうつもりでこのように書きました」と解説してくれると、ボクも驚かされるのかもしれないが、作品単体ではなかなか理解できない。文学の外にあった人間が、ふと文学的になるのも良いのだが、外から思う”文学”はやはり本物の”文学”ではないのだろう。本物の”文学”となるためには、もうちょっとシンプルにする必要があったのではないだろうか。中身も表現ももうちょっとシンプルにして、作品世界について、もうちょっと読者に教えても良かった気がする。
また、装丁もどこまでこうする必要性があったのか疑問だ。何か深い意図があったのかもしれないが、少なくともボクには伝わらなかった。値段を上げるためだけではないとボクは信じたいのだが、そんな気さえしてしまう。
『表現』をしたい気持ちはわかるのだが、やはり『伝える』ということも重要だろう。この本は書店に並んで売られるのであるから、読まれるということはもっと意識されてしかるべきだと思う。西尾ファンの一人であるボクとしては、読者に迎合する必要はないとしても、もうちょっと読者に親切であって欲しかった。
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QED ~ventus~ 熊野の残照
2005年8月8日 読書
ISBN:4061824406 新書 高田 崇史 講談社 2005/08/05 ¥840
QEDシリーズの最新作が出たので、さっそく買ってしまい、昨日一晩かけて一気に読破してしまった。
内容としては熊野三山の神様の話がメインで、ほとんど熊野の観光案内。一応プラスαとして細かいネタがあり、作者としてはそれでミステリー臭を出そうとしているようなのだが、そちらの方のネタは基本的にはちょっと弱めで、全体としてミステリーとして成立しているかはかなり微妙なところ。だから、今回の話は熊野三山の観光案内と思った方がいいだろう。
実際、ボクも熊野三山に行ってみたくなったし、そこに出てくる午王誓紙は、思わずインターネットで調べて、見てしまった。だから、結構好きな人はハマると思うし、楽しく読めると思うのだが、ミステリーにこだわる人には、失敗作に見えるかもしれないので要注意と言ったところかな。
QEDシリーズの最新作が出たので、さっそく買ってしまい、昨日一晩かけて一気に読破してしまった。
内容としては熊野三山の神様の話がメインで、ほとんど熊野の観光案内。一応プラスαとして細かいネタがあり、作者としてはそれでミステリー臭を出そうとしているようなのだが、そちらの方のネタは基本的にはちょっと弱めで、全体としてミステリーとして成立しているかはかなり微妙なところ。だから、今回の話は熊野三山の観光案内と思った方がいいだろう。
実際、ボクも熊野三山に行ってみたくなったし、そこに出てくる午王誓紙は、思わずインターネットで調べて、見てしまった。だから、結構好きな人はハマると思うし、楽しく読めると思うのだが、ミステリーにこだわる人には、失敗作に見えるかもしれないので要注意と言ったところかな。
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ホリエモン「25時間テレビ」でフジ復帰 [日刊スポーツ]
2005年7月24日 時事ニュース
07月24日付 日刊スポーツの報道「ホリエモン「25時間テレビ」でフジ復帰」へのコメント:
今回の25時間テレビは、ホリエモンのための25時間テレビだった気がする。
初日の夜、フジはホリエモンを走らせて、細木数子と対談させることで、まず彼という人物をクローズアップさせた。
次に、断続的に放送されたWAVEというドラマは、最後から二つ目の回における明石家さんま扮する編成局長の言葉、つまり電波は金儲けのためにあるんじゃないといった発言や、電波は50年にわたって諸先輩方が支えてきたものなんだといった発言により、ホリエモン批判を繰り広げたものと言え、特に最後にチャンネルエイトの占領犯人が、チャンネルエイト内にある株券をよこせと要求したところは、株券だけを盗んだところで換金できないということを知った上で、あえて象徴的に使ったものと考えられる。
また、意図したか否かは不明だが、細木数子がホリエモンから一緒に仕事をしましょうと言われた際に、携帯サイトでやっていると答えたことと、今回のトリビアの温泉で携帯のアプリによって視聴者の採点を番組内に取り入れ、その評価によって実質的に勝者を決めるシステムにしたことは、インターネットと騒ぐホリエモンに対して、インターネットでなくても携帯を使って独自にサービス提供をすることができるということを示したようにも思われる。
そして最後の笑福亭鶴瓶の発言は、当然に台本があってしゃべっているのであり、音楽を流すタイミングや、その後のココリコのつっこみなども全てリハーサルまでやっているであろうことを考えると、そこで語られた内容もフジテレビ制作現場の人間のメッセージが込められていると考えられ、それはまたホリエモンという人物に対する、一つの意見として、提示されていたように思う。
そういう意味では、ホリエモンはフジに復帰はしたが、必ずしも現場に受け入れられているかは不明というべきであり、フジテレビの社風として「面白いことは自らが傷ついてもやる」という芸人的なところがあることを考えると、ホリエモンにもう少しいろいろなことについて熟考することを促しているようにも感じた。
今回の25時間テレビは、ホリエモンのための25時間テレビだった気がする。
初日の夜、フジはホリエモンを走らせて、細木数子と対談させることで、まず彼という人物をクローズアップさせた。
次に、断続的に放送されたWAVEというドラマは、最後から二つ目の回における明石家さんま扮する編成局長の言葉、つまり電波は金儲けのためにあるんじゃないといった発言や、電波は50年にわたって諸先輩方が支えてきたものなんだといった発言により、ホリエモン批判を繰り広げたものと言え、特に最後にチャンネルエイトの占領犯人が、チャンネルエイト内にある株券をよこせと要求したところは、株券だけを盗んだところで換金できないということを知った上で、あえて象徴的に使ったものと考えられる。
また、意図したか否かは不明だが、細木数子がホリエモンから一緒に仕事をしましょうと言われた際に、携帯サイトでやっていると答えたことと、今回のトリビアの温泉で携帯のアプリによって視聴者の採点を番組内に取り入れ、その評価によって実質的に勝者を決めるシステムにしたことは、インターネットと騒ぐホリエモンに対して、インターネットでなくても携帯を使って独自にサービス提供をすることができるということを示したようにも思われる。
そして最後の笑福亭鶴瓶の発言は、当然に台本があってしゃべっているのであり、音楽を流すタイミングや、その後のココリコのつっこみなども全てリハーサルまでやっているであろうことを考えると、そこで語られた内容もフジテレビ制作現場の人間のメッセージが込められていると考えられ、それはまたホリエモンという人物に対する、一つの意見として、提示されていたように思う。
そういう意味では、ホリエモンはフジに復帰はしたが、必ずしも現場に受け入れられているかは不明というべきであり、フジテレビの社風として「面白いことは自らが傷ついてもやる」という芸人的なところがあることを考えると、ホリエモンにもう少しいろいろなことについて熟考することを促しているようにも感じた。
乗客イライラ 首都圏の鉄道、地震で長時間ストップ [朝日新聞]
2005年7月23日 時事ニュース
07月23日付 朝日新聞の報道「乗客イライラ 首都圏の鉄道、地震で長時間ストップ」へのコメント:
あれほどまでに電車が止まるとは思わなかった。しかも、山手線があれほどまでに動かないとは思わなかった。
JRは関東大震災にも備えられるように準備しているに違いないとは思う。しかし、この程度でこれほどの騒ぎになるとしたら、実際にきたらどれくらい大変なことになるのだろう。そう考えると、少し不安になるような事態だった。
今回は、土曜日の夕方ということもあって、それほど騒ぎは拡大しなかった。しかし、平日の同時刻だったら、帰宅ラッシュとも重なってもっと大変なことになったはずである。
そういう意味では、予行練習としては非常に不安な結果となったと言えるのではないかと思うし、実際に起こった場合にどのような事態になるのかという点について、少し見えたのではないかという気がする。
あれほどまでに電車が止まるとは思わなかった。しかも、山手線があれほどまでに動かないとは思わなかった。
JRは関東大震災にも備えられるように準備しているに違いないとは思う。しかし、この程度でこれほどの騒ぎになるとしたら、実際にきたらどれくらい大変なことになるのだろう。そう考えると、少し不安になるような事態だった。
今回は、土曜日の夕方ということもあって、それほど騒ぎは拡大しなかった。しかし、平日の同時刻だったら、帰宅ラッシュとも重なってもっと大変なことになったはずである。
そういう意味では、予行練習としては非常に不安な結果となったと言えるのではないかと思うし、実際に起こった場合にどのような事態になるのかという点について、少し見えたのではないかという気がする。
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ISBN:4334075649 新書 麻耶 雄嵩 光文社 2004/05/20 ¥860
久しぶりに再読したので感想を一つ。
ボクはこの人の作品が好きで、「夏と冬の奏鳴曲」などは本当に最後まで読んだのに結末がよくわからず、訳がわからないまま読み終わったのに、それでもなんだかわからないけどその空気感が好きという、ある意味では理性を超えたファンだったりする。だからかもしれないが、ボクはこの作品についても、もろ手を挙げて賛成したいと感じたし、とても面白いと思った。
ここで使われているネタは、「翼ある闇」という第一作からの続きみたいなところがある。だから、まずはそちらを読むことが必要であり、それを読んでからこちらを読むと、非常に良く人間関係やそれぞれの人間性がわかるようになっている。そして、それがわかった上で読んでいるから、読者も一緒に探偵にイライラしたりするし、最後の探偵の一言に納得したりするのである。
そういう意味では、それらの人間関係や人間性を利用して、うまくワトソン役の筆記者に読者を感情移入させているとも言え、ボクがファンだからかもしれないが、何度読み返してもよい作品になっていると思う。
ちなみに、「夏と冬の奏鳴曲」については、インターネット上でもいろいろな説が流れており、ボク自身も今までにも何度となく読み返してはみたが、未だにはっきりとした結末は見えずにいる。
久しぶりに再読したので感想を一つ。
ボクはこの人の作品が好きで、「夏と冬の奏鳴曲」などは本当に最後まで読んだのに結末がよくわからず、訳がわからないまま読み終わったのに、それでもなんだかわからないけどその空気感が好きという、ある意味では理性を超えたファンだったりする。だからかもしれないが、ボクはこの作品についても、もろ手を挙げて賛成したいと感じたし、とても面白いと思った。
ここで使われているネタは、「翼ある闇」という第一作からの続きみたいなところがある。だから、まずはそちらを読むことが必要であり、それを読んでからこちらを読むと、非常に良く人間関係やそれぞれの人間性がわかるようになっている。そして、それがわかった上で読んでいるから、読者も一緒に探偵にイライラしたりするし、最後の探偵の一言に納得したりするのである。
そういう意味では、それらの人間関係や人間性を利用して、うまくワトソン役の筆記者に読者を感情移入させているとも言え、ボクがファンだからかもしれないが、何度読み返してもよい作品になっていると思う。
ちなみに、「夏と冬の奏鳴曲」については、インターネット上でもいろいろな説が流れており、ボク自身も今までにも何度となく読み返してはみたが、未だにはっきりとした結末は見えずにいる。
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錬金術―おおいなる神秘
2005年7月11日 読書
ISBN:4422211323 単行本(ソフトカバー) 種村 季弘 創元社 1997/12 ¥1,575
錬金術と言って思い浮かぶのは、今なら『鋼の錬金術師』かもしれないが、この本は豊富な図版とわかりやすい文章により、そこで語られている錬金術の入り口を見せてくれるという意味で、非常に良い入門書と言えよう。
今までは錬金術と言えば、妖しい思想のように考えていたが、この本を読んでみると、錬金術は一つの化学の考え方なのであると言うことがわかってくる。つまり、今ある科学的思考に基づく化学とは全く異なる方法で科学的事象を説明する。それが錬金術なのである。
そして、そこでは占星術との関わりをも説明してくれる。占星術師の鏡リュウジ氏が、占星術が当たることを科学で説明することがなかなかできないと言うことを本の中で語っていたが、この本を読んでいると、錬金術的科学観の中でできあがってきた占星術は、確かに現代科学の世界観の中では説明が困難であろうことをわからせてくれる。
そういう意味で、ある種の世界観を広げてくれる一冊であり、ぜひ心を広く持って読んで欲しい一冊である。
錬金術と言って思い浮かぶのは、今なら『鋼の錬金術師』かもしれないが、この本は豊富な図版とわかりやすい文章により、そこで語られている錬金術の入り口を見せてくれるという意味で、非常に良い入門書と言えよう。
今までは錬金術と言えば、妖しい思想のように考えていたが、この本を読んでみると、錬金術は一つの化学の考え方なのであると言うことがわかってくる。つまり、今ある科学的思考に基づく化学とは全く異なる方法で科学的事象を説明する。それが錬金術なのである。
そして、そこでは占星術との関わりをも説明してくれる。占星術師の鏡リュウジ氏が、占星術が当たることを科学で説明することがなかなかできないと言うことを本の中で語っていたが、この本を読んでいると、錬金術的科学観の中でできあがってきた占星術は、確かに現代科学の世界観の中では説明が困難であろうことをわからせてくれる。
そういう意味で、ある種の世界観を広げてくれる一冊であり、ぜひ心を広く持って読んで欲しい一冊である。
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ISBN:4834250865 新書 荒井 良二 ホーム社 2003/06 ¥1,365
最近、オカルト系の本にはまっている。西洋で言えば、占星術や錬金術の本などがこれに当たる。今回のこの本も、その一環で買いもとめたものである。
タロットをやってみたいと思う人がまず遊びとして買う本としては、非常にお薦めしたい本である。その内容ややり方は非常に簡略化されていて、大アルカナカードしかない点や逆位置を考慮しない点は、本格的にやりたい人にとっては非常に不満に感じられると思うが、初心者が遊びとしてやるには十分であるように感じる。
ボクの場合は、どちらかというと極めたくなってしまうタイプなので、残念ながらこの本では満足できなかったが、「西洋占星術」ではなく「星占い」でいいと思えるような人には、むしろこの本くらいがちょうど良いのではないだろうか。
最近、オカルト系の本にはまっている。西洋で言えば、占星術や錬金術の本などがこれに当たる。今回のこの本も、その一環で買いもとめたものである。
タロットをやってみたいと思う人がまず遊びとして買う本としては、非常にお薦めしたい本である。その内容ややり方は非常に簡略化されていて、大アルカナカードしかない点や逆位置を考慮しない点は、本格的にやりたい人にとっては非常に不満に感じられると思うが、初心者が遊びとしてやるには十分であるように感じる。
ボクの場合は、どちらかというと極めたくなってしまうタイプなので、残念ながらこの本では満足できなかったが、「西洋占星術」ではなく「星占い」でいいと思えるような人には、むしろこの本くらいがちょうど良いのではないだろうか。
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夏の庭―The Friends
2005年7月1日 読書
ISBN:4101315116 文庫 湯本 香樹実 新潮社 1994/03 ¥420
今さらだが、今日書くのはこの本についてである。ずっと気にはなっていたのだが、なんだか話題になっているときに買うのは何となく気が引け、それでてその時期が終わってしまうと平積みにならなくなってしまって、これまた何となく忘れてしまっていたという一冊であった。
実際に読んでみると、題材が”人の死”という重いものだけに、やはり読ませるパワーはそれほど強くはなかったのだが、それでも静かに、一気に読了してしまった。ストーリー展開は予想通りだし、途中の展開は若干わかりにくい部分もあるのだが、それでも子供たちとおじいさんの心の変化は心地よく伝わってきて、なんとなく癒されたような気分がした。
読む前に想像していたのは、もっと”死”というものを真っ正面からとらえていて、何か考えさせられるようなお話ではないか、ということだった。しかし実際に読んでみるとそうではなく、本当の主題はまさに題名の中にあるのだということは、読了後に気が付いたことであり、それがまた少し、何か心を落ち着けてくれたような気がした。
今さらだが、今日書くのはこの本についてである。ずっと気にはなっていたのだが、なんだか話題になっているときに買うのは何となく気が引け、それでてその時期が終わってしまうと平積みにならなくなってしまって、これまた何となく忘れてしまっていたという一冊であった。
実際に読んでみると、題材が”人の死”という重いものだけに、やはり読ませるパワーはそれほど強くはなかったのだが、それでも静かに、一気に読了してしまった。ストーリー展開は予想通りだし、途中の展開は若干わかりにくい部分もあるのだが、それでも子供たちとおじいさんの心の変化は心地よく伝わってきて、なんとなく癒されたような気分がした。
読む前に想像していたのは、もっと”死”というものを真っ正面からとらえていて、何か考えさせられるようなお話ではないか、ということだった。しかし実際に読んでみるとそうではなく、本当の主題はまさに題名の中にあるのだということは、読了後に気が付いたことであり、それがまた少し、何か心を落ち着けてくれたような気がした。
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小田和正 CD BMGファンハウス 2005/06/15 ¥3,059まっ白 (TBS系ドラマ「それは、突然、嵐のように…」主題歌
静かな場所(日本テレビ系「素顔がイイねっ!」エンディングテーマ曲)
大好きな君に (NHKアニメ劇場「雪の女王」エンディング曲)
僕らの夏 (「ABUアジア太平洋ロボットコンテスト2002東京大会」テーマ曲)
Re
正義は勝つ(MBS・TBS系「世界ウルルン滞在記」エンディングテーマ)
たしかなこと (明治安田生命企業CM曲)
僕ら (日中合作映画『最後の恋、初めての恋』主題歌)
明日 (テレビ東京「ワールド・ビジネスサテライト」エンディング テーマ曲 2003年4月〜2004月)
風のようにうたが流れていた (TBS系月曜組曲「風のようにうたが流れていた」テーマ曲)
そして今も(映画『マラソン』日本版テーマソング)
買おうか、やめようか、ずっと悩んでいたCDだったのだが、ある店で2,600円程度で売っているのを見つけ、思わず買ってしまった。
買ってみると、やはりいい曲が多く、番組テーマ曲やコマーシャルソングばかりなので、聞き覚えのある曲が多い分、逆にお得感が高い。だから、ボクが聞くときは、何も考えずにCDをスタートさせ、全曲リピートか、ランダムである。つまり、どの曲から聞いてもいいし、とばしたい曲もほとんどない。そういう意味でも、すごくおすすめであり、今になってみると、やっぱり買って良かったと思う。
静かな場所(日本テレビ系「素顔がイイねっ!」エンディングテーマ曲)
大好きな君に (NHKアニメ劇場「雪の女王」エンディング曲)
僕らの夏 (「ABUアジア太平洋ロボットコンテスト2002東京大会」テーマ曲)
Re
正義は勝つ(MBS・TBS系「世界ウルルン滞在記」エンディングテーマ)
たしかなこと (明治安田生命企業CM曲)
僕ら (日中合作映画『最後の恋、初めての恋』主題歌)
明日 (テレビ東京「ワールド・ビジネスサテライト」エンディング テーマ曲 2003年4月〜2004月)
風のようにうたが流れていた (TBS系月曜組曲「風のようにうたが流れていた」テーマ曲)
そして今も(映画『マラソン』日本版テーマソング)
買おうか、やめようか、ずっと悩んでいたCDだったのだが、ある店で2,600円程度で売っているのを見つけ、思わず買ってしまった。
買ってみると、やはりいい曲が多く、番組テーマ曲やコマーシャルソングばかりなので、聞き覚えのある曲が多い分、逆にお得感が高い。だから、ボクが聞くときは、何も考えずにCDをスタートさせ、全曲リピートか、ランダムである。つまり、どの曲から聞いてもいいし、とばしたい曲もほとんどない。そういう意味でも、すごくおすすめであり、今になってみると、やっぱり買って良かったと思う。
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シダックスの株主総会に行った
2005年6月30日 日常 今年初めて株主総会デビューをしたボクもこれで三社目の株主総会とあって、結構見方がわかってきた。たった2社しか見ておらず、しかもそのうちの一つは完全に見たわけではないのだが、そんなボクでもわかるほどにシダックスの株主総会はボロボロでひどいものであった。他の株主が質問の中で問題点を指摘していたが、担当者や顧問弁護士はもうちょっといろいろなことに気が付かなかったのだろうか。そう考えると、非常に人材としてのレベルの低さを感じた。
ボクの株主総会デビューは、テレビでも非常に話題になった「ホリプロ」だった。初めて見た堀社長は若い人で、一瞬頼りなさげにも見えたのだが、いざ始まってみると議事進行はしっかりとしており、心象は一変した。しかも、すごくお金をかけて準備をしており、営業報告はCGやドラマなどの映像を多用したVTRを使って素人にもわかりやすく説明していたし、その後の株主の質問に対しては、議長席と答弁席にプロンプターを置き、後ろの事務局席の人は全員ノートパソコンを用意して、いちいち後ろから紙を差し出したりしてバタバタしなくても、きちんと事務局の指示が議長や答弁者に伝わるようになっていた。だから、たとえダラダラとたくさんの質問が含まれる内容を株主が語ったとしても、質問の内容と数を整理して、個々の質問について誰が答弁するかということを明確にする議長の指示は的確かつスムーズに行われたし、質問内容の要約も、社長本人がやっているのか事務局がやっているのか知らないが、正確かつ明瞭だった。だから、無理なくきれいに議事は進行し、ほぼ時間通りに終わった。
しかも、テレビでも放送されたが、そのあとは同伴者2名までが認められる豪華なホテルでの立食パーティがあり、そこでは新人芸能人も含めて次々と舞台に人が現れ、楽しい時を過ごすことができた。そして、その会場には社長や取締役も当然に出席し、中には社長と写真を撮る株主までいた。また、帰りには自社が輸入販売しているブランドのポーチをもらい、最低約10万円で買える株の株主とは思えないほど厚遇をされ、また来年も来たいと思ってしまった。
次に行ったのは、ニッポン放送の株主総会であった。これは、フジテレビの100%子会社になるということで、取締役連中もやる気がなく、とりあえずこの時間が終わればいいんだからという雰囲気で、答弁もかなりいい加減だった。しかも、想定問答集をどこまで作っていたのか知らないが、事務局との壇上での打ち合わせもバタバタしており、それこそホリプロよりも、あのプロンプターのシステムの必要性が高いんじゃないの?と言いたくなるような有り様であった。そして、ダラダラと時間は過ぎ、ボクは午後から用事があったため結局途中で退出した。
あれは明らかに、来年からフジテレビとの一人株主総会をやればいいだけになることから、そこにいる1,000人近くの株主の機嫌を損ねようが何しようが全く関係なく、どうせ無縁の人になるので適当に済ませているという本音部分が反映されていたのであろう。だから、普通に野次馬根性で見に行ったボクでさえ、途中で腹が立ってきて質問をしてやろうかと思ったくらいで、特に新株引き受け権のところなどは、答弁内容に反論したい点がいくつかあり、また他にもいくつか法律的にも言えるのではないかと思う点があったので指摘しようかとさえ思った。
そして、今回のシダックスである。前の二つが個人株主重視という最近の傾向を非常に反映した株主総会と、逆に100%子会社化されるために個人株主なんてもう気にする必要がないという特殊事情をもった株主総会という、非常に対照的な株主総会だったのに対して、この株主総会は、まさに前時代的な株主総会であった。
何が前時代的かというと、その会場の構成である。少し早めに着いたのだが、着いてまずそのときに目に飛び込んできたのは、最前列の黒い壁であった。なんと、最前列にダークスーツを着た年配の社員株主を壁のように並べていたのである。しかも、その前にはご丁寧に白いテーブルクロスを張った机が、壁から壁までピタッと付けて並んでいるのである。
この文章だけでその異様さが伝わるかは自信がないが、想像して欲しい。
会場はただのホールであり、言うなれば集会所のイメージである。だから、壇上というものは存在せず、同じ平面上に株主も取締役も座ることになる。ただ、その株主席と取締役席の間に白いテーブルクロスを張った机を壁から壁まで並べることで、我々は取締役席に行けないように隔たれているのである。しかも、株主席も2列目以降は座りやすいように通路が用意され、いくつかの島に分かれているのに、なぜか1列目だけは端から端まで隙間なくイスを並べており、しかも今日の暑さもあって、2列目以降はシャツなどで白っぽい服装の人々が並んでいるのに対し、最前列だけダークスーツをビシッと着込み、本当に黒い壁ができあがっているのである。
これは明らかに総会屋対策が必要だった時代の古き悪しき総会形式であり、この白と黒の壁は物理的のみならず、心理的にも株主と取締役の間を隔てるものであると言えよう。そういう意味において、ボクとしてはいつの株主総会マニュアルを参考にしているんだと言いたくなるわけであるが、そんなマニュアルしか知らない総務担当者も、その点につきろくに指摘もしない顧問弁護士も、本当にどうなんだろうなぁと思わされる会場設営であった。
そして、この失望感は議事が始まってからもとどまることはなかった。まず営業報告をするのだが、ホリプロはCGなどにも非常に凝った作りの映像で説明し、ニッポン放送は映像はパワーポイントっぽい作りだったがナレーション付きのVTRで説明したのに対し、シダックスはいきなりダラダラと招集通知記載の営業報告を社長が棒読みし始めたのである。確かに、こんな株主総会なんてものに金も手間もかけたくないという気持ちはわからなくもないのだが、正面には立派なスクリーンがあり、脇には正面スクリーンが見えない人用の大型の別のスクリーンが用意されていたのであるから、それこそ社員の手作りのパワーポイントでいいから、数字やグラフなどをそこに示し、それを使いながら説明すれば素人にもわかりやすいような説明ができたはずである。ところが、専門用語の入った営業報告と、見方を知らないとどこを見ていいのかわからないような、そのままの計算書類を見せながら淡々と棒読み口調での説明(?)を続けるものだから、素人には非常にわかりにくかった。しかも、前年比とかの数値を隠したいらしく、他の会社のようには詳しく明確には書いてないし、書いてあるデータもやたら売上高が強調されていて、株主にとって重要であるはずの、個々の事業に関する利益についての説明が全くないなど、説明責任もほとんどまともに果たしていないのではないかと思われるような内容であった。
長年の実績あるホリプロと、たかだかジャスダックで売っているだけの新興企業を比べるのがそもそも間違っているのかもしれないが、たとえ表現方法の違いやその表現にかけられる金額の違いはあるにしろ、内容だけでももう少し考えて、まともなものにできなかったのかなぁという気がした。
また、議長の議事進行もお粗末で、ホリプロの時は、営業報告→決議する議案の内容説明→説明内容及び議案に関する株主の質問→議決、という流れであったため、最後の議決の時ただ議長は「第1号議案に対する決議をいたします。ご異議のある方はいらっしゃいますか?」ときき、それに対して前方の端の方に座っている社員株主が「異議なし!」と答えて拍手を始め、それにつられて他の株主も拍手をすると「ご異議がないようですので、賛成多数と認め、本件第1号議案については可決されました。」とかいうようなことを言って可決扱いにしていた。また、定款変更などの…
ボクの株主総会デビューは、テレビでも非常に話題になった「ホリプロ」だった。初めて見た堀社長は若い人で、一瞬頼りなさげにも見えたのだが、いざ始まってみると議事進行はしっかりとしており、心象は一変した。しかも、すごくお金をかけて準備をしており、営業報告はCGやドラマなどの映像を多用したVTRを使って素人にもわかりやすく説明していたし、その後の株主の質問に対しては、議長席と答弁席にプロンプターを置き、後ろの事務局席の人は全員ノートパソコンを用意して、いちいち後ろから紙を差し出したりしてバタバタしなくても、きちんと事務局の指示が議長や答弁者に伝わるようになっていた。だから、たとえダラダラとたくさんの質問が含まれる内容を株主が語ったとしても、質問の内容と数を整理して、個々の質問について誰が答弁するかということを明確にする議長の指示は的確かつスムーズに行われたし、質問内容の要約も、社長本人がやっているのか事務局がやっているのか知らないが、正確かつ明瞭だった。だから、無理なくきれいに議事は進行し、ほぼ時間通りに終わった。
しかも、テレビでも放送されたが、そのあとは同伴者2名までが認められる豪華なホテルでの立食パーティがあり、そこでは新人芸能人も含めて次々と舞台に人が現れ、楽しい時を過ごすことができた。そして、その会場には社長や取締役も当然に出席し、中には社長と写真を撮る株主までいた。また、帰りには自社が輸入販売しているブランドのポーチをもらい、最低約10万円で買える株の株主とは思えないほど厚遇をされ、また来年も来たいと思ってしまった。
次に行ったのは、ニッポン放送の株主総会であった。これは、フジテレビの100%子会社になるということで、取締役連中もやる気がなく、とりあえずこの時間が終わればいいんだからという雰囲気で、答弁もかなりいい加減だった。しかも、想定問答集をどこまで作っていたのか知らないが、事務局との壇上での打ち合わせもバタバタしており、それこそホリプロよりも、あのプロンプターのシステムの必要性が高いんじゃないの?と言いたくなるような有り様であった。そして、ダラダラと時間は過ぎ、ボクは午後から用事があったため結局途中で退出した。
あれは明らかに、来年からフジテレビとの一人株主総会をやればいいだけになることから、そこにいる1,000人近くの株主の機嫌を損ねようが何しようが全く関係なく、どうせ無縁の人になるので適当に済ませているという本音部分が反映されていたのであろう。だから、普通に野次馬根性で見に行ったボクでさえ、途中で腹が立ってきて質問をしてやろうかと思ったくらいで、特に新株引き受け権のところなどは、答弁内容に反論したい点がいくつかあり、また他にもいくつか法律的にも言えるのではないかと思う点があったので指摘しようかとさえ思った。
そして、今回のシダックスである。前の二つが個人株主重視という最近の傾向を非常に反映した株主総会と、逆に100%子会社化されるために個人株主なんてもう気にする必要がないという特殊事情をもった株主総会という、非常に対照的な株主総会だったのに対して、この株主総会は、まさに前時代的な株主総会であった。
何が前時代的かというと、その会場の構成である。少し早めに着いたのだが、着いてまずそのときに目に飛び込んできたのは、最前列の黒い壁であった。なんと、最前列にダークスーツを着た年配の社員株主を壁のように並べていたのである。しかも、その前にはご丁寧に白いテーブルクロスを張った机が、壁から壁までピタッと付けて並んでいるのである。
この文章だけでその異様さが伝わるかは自信がないが、想像して欲しい。
会場はただのホールであり、言うなれば集会所のイメージである。だから、壇上というものは存在せず、同じ平面上に株主も取締役も座ることになる。ただ、その株主席と取締役席の間に白いテーブルクロスを張った机を壁から壁まで並べることで、我々は取締役席に行けないように隔たれているのである。しかも、株主席も2列目以降は座りやすいように通路が用意され、いくつかの島に分かれているのに、なぜか1列目だけは端から端まで隙間なくイスを並べており、しかも今日の暑さもあって、2列目以降はシャツなどで白っぽい服装の人々が並んでいるのに対し、最前列だけダークスーツをビシッと着込み、本当に黒い壁ができあがっているのである。
これは明らかに総会屋対策が必要だった時代の古き悪しき総会形式であり、この白と黒の壁は物理的のみならず、心理的にも株主と取締役の間を隔てるものであると言えよう。そういう意味において、ボクとしてはいつの株主総会マニュアルを参考にしているんだと言いたくなるわけであるが、そんなマニュアルしか知らない総務担当者も、その点につきろくに指摘もしない顧問弁護士も、本当にどうなんだろうなぁと思わされる会場設営であった。
そして、この失望感は議事が始まってからもとどまることはなかった。まず営業報告をするのだが、ホリプロはCGなどにも非常に凝った作りの映像で説明し、ニッポン放送は映像はパワーポイントっぽい作りだったがナレーション付きのVTRで説明したのに対し、シダックスはいきなりダラダラと招集通知記載の営業報告を社長が棒読みし始めたのである。確かに、こんな株主総会なんてものに金も手間もかけたくないという気持ちはわからなくもないのだが、正面には立派なスクリーンがあり、脇には正面スクリーンが見えない人用の大型の別のスクリーンが用意されていたのであるから、それこそ社員の手作りのパワーポイントでいいから、数字やグラフなどをそこに示し、それを使いながら説明すれば素人にもわかりやすいような説明ができたはずである。ところが、専門用語の入った営業報告と、見方を知らないとどこを見ていいのかわからないような、そのままの計算書類を見せながら淡々と棒読み口調での説明(?)を続けるものだから、素人には非常にわかりにくかった。しかも、前年比とかの数値を隠したいらしく、他の会社のようには詳しく明確には書いてないし、書いてあるデータもやたら売上高が強調されていて、株主にとって重要であるはずの、個々の事業に関する利益についての説明が全くないなど、説明責任もほとんどまともに果たしていないのではないかと思われるような内容であった。
長年の実績あるホリプロと、たかだかジャスダックで売っているだけの新興企業を比べるのがそもそも間違っているのかもしれないが、たとえ表現方法の違いやその表現にかけられる金額の違いはあるにしろ、内容だけでももう少し考えて、まともなものにできなかったのかなぁという気がした。
また、議長の議事進行もお粗末で、ホリプロの時は、営業報告→決議する議案の内容説明→説明内容及び議案に関する株主の質問→議決、という流れであったため、最後の議決の時ただ議長は「第1号議案に対する決議をいたします。ご異議のある方はいらっしゃいますか?」ときき、それに対して前方の端の方に座っている社員株主が「異議なし!」と答えて拍手を始め、それにつられて他の株主も拍手をすると「ご異議がないようですので、賛成多数と認め、本件第1号議案については可決されました。」とかいうようなことを言って可決扱いにしていた。また、定款変更などの…
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ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種
2005年6月15日 読書
ISBN:406182399X 新書 西尾 維新 講談社 2005/06/07 ¥1,134
速攻に買って読んだのだが、個人的に忙しかったのでちょっと遅れたが感想を書いてみたい。
今回のは中巻とは思えない展開で、面白く読むことができた。普通、中巻というのは中だるみするもので、下巻へのつなぎに過ぎないという位置づけであることが多い。しかし、今回は一つの区切りをつけながら、下巻へのつなぎを行っているので、なんとなく読了感がある。それがまたいいのである。
世界観は相変わらずの世界観で、なんだかぶっちぎれているのだが、これが慣れてくると心地よく感じられるから不思議。でも、最後にいきなり唐突に下巻へのつなぎと思われるネタが出てくるのは、ちょっとズルいかなって思われた。だって、書かなかったら、中巻と下巻じゃなくて、別々の話として発売できそうな感じなんだもの。だからこそのネタなんだろうけど、こういう書き方は、う〜ん、どうだったんだろうねぇという気はする。まあ、とりあえず下巻を早く出してくれさえすれば、ボクとしては文句はないんだけどね。
速攻に買って読んだのだが、個人的に忙しかったのでちょっと遅れたが感想を書いてみたい。
今回のは中巻とは思えない展開で、面白く読むことができた。普通、中巻というのは中だるみするもので、下巻へのつなぎに過ぎないという位置づけであることが多い。しかし、今回は一つの区切りをつけながら、下巻へのつなぎを行っているので、なんとなく読了感がある。それがまたいいのである。
世界観は相変わらずの世界観で、なんだかぶっちぎれているのだが、これが慣れてくると心地よく感じられるから不思議。でも、最後にいきなり唐突に下巻へのつなぎと思われるネタが出てくるのは、ちょっとズルいかなって思われた。だって、書かなかったら、中巻と下巻じゃなくて、別々の話として発売できそうな感じなんだもの。だからこそのネタなんだろうけど、こういう書き方は、う〜ん、どうだったんだろうねぇという気はする。まあ、とりあえず下巻を早く出してくれさえすれば、ボクとしては文句はないんだけどね。
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ISBN:4062750848 文庫 高里 椎奈 講談社 2005/05 ¥700
この本、新書として発売されたときに買って読んだのだが、今回あらためて文庫として発売されたので、思わず出先でひまつぶしに買って読んでしまった。
妖怪が主人公という設定がとても面白く、その妖怪世界(?)の世界観を取り入れながら話は進んでいくのだが、これがまた結構面白い。しかも、ミステリーとしてみたときも、実はそれはそれとして成り立っている。そういう意味で、なかなかうまくできていると思うし、面白く読めると思う。
ただ、妖怪が主人公という段階で、ちょっと読む人を選ぶかもしれない。そういうちょっと違った世界観を楽しめない人にとっては、「普通のミステリーでいいじゃねぇか」となる可能性があり、逆にこれらのキャラクターにはまった人にとっては、「このキャラクターの新作が早く読みたい!」となるのだろう。そういう意味では、まさにこの表紙の絵に抵抗を覚えるか否かが問題となるのだろうと思うのだが、ボク個人としては絵が気に入るか否かにかかわらず、まあとりあえず読んでみることをおすすめしたい。
この本、新書として発売されたときに買って読んだのだが、今回あらためて文庫として発売されたので、思わず出先でひまつぶしに買って読んでしまった。
妖怪が主人公という設定がとても面白く、その妖怪世界(?)の世界観を取り入れながら話は進んでいくのだが、これがまた結構面白い。しかも、ミステリーとしてみたときも、実はそれはそれとして成り立っている。そういう意味で、なかなかうまくできていると思うし、面白く読めると思う。
ただ、妖怪が主人公という段階で、ちょっと読む人を選ぶかもしれない。そういうちょっと違った世界観を楽しめない人にとっては、「普通のミステリーでいいじゃねぇか」となる可能性があり、逆にこれらのキャラクターにはまった人にとっては、「このキャラクターの新作が早く読みたい!」となるのだろう。そういう意味では、まさにこの表紙の絵に抵抗を覚えるか否かが問題となるのだろうと思うのだが、ボク個人としては絵が気に入るか否かにかかわらず、まあとりあえず読んでみることをおすすめしたい。
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三越大阪店が閉店・315年の歴史に幕 [日経新聞]
2005年5月6日 時事ニュース
05月06日付 日経新聞の報道「三越大阪店が閉店・315年の歴史に幕」へのコメント:
かつて大阪に住んだことのある者としては、なんだか大阪の町がさびれていくようでちょっと寂しい。ただ冷静に考えると、三越についてはあの場所ではちょっと厳しかったかなという気もする。
百貨店というものが存在意義を失い始めている今、その重要性は立地条件などを含めた、箱としての利用価値に移っている。そういう意味で、御堂筋ラインからはずれた立地条件では将来性に乏しく、利用価値としてもやはり低かったということになるだろう。
これは東京においても同様のことが言える。たとえば、日本橋などは銀座・有楽町ラインと比較して、交通手段が地下鉄で、しかも他に映画館などの集客施設が何もないということから、集客力という面では難しい部分があるだろうし、他にいろいろな集客施設があっても買い物客を集めるという面では、アメ横や多慶屋などがある上野なども厳しいだろう。
それにしても、百貨店というのは、いつからこんなに弱くなってしまったのだろうか。デパートに就職したなんていえば、結構偉そうにできたものだが、今やなんだか斜陽産業であるように感じられる。それでも大家として儲けられれば、それはそれでいいのだろうが、流通業ではなく、実質的には不動産業のような利益のあげ方をするようでは、もう「百貨店」とは言えないのではないだろうか。
かつて大阪に住んだことのある者としては、なんだか大阪の町がさびれていくようでちょっと寂しい。ただ冷静に考えると、三越についてはあの場所ではちょっと厳しかったかなという気もする。
百貨店というものが存在意義を失い始めている今、その重要性は立地条件などを含めた、箱としての利用価値に移っている。そういう意味で、御堂筋ラインからはずれた立地条件では将来性に乏しく、利用価値としてもやはり低かったということになるだろう。
これは東京においても同様のことが言える。たとえば、日本橋などは銀座・有楽町ラインと比較して、交通手段が地下鉄で、しかも他に映画館などの集客施設が何もないということから、集客力という面では難しい部分があるだろうし、他にいろいろな集客施設があっても買い物客を集めるという面では、アメ横や多慶屋などがある上野なども厳しいだろう。
それにしても、百貨店というのは、いつからこんなに弱くなってしまったのだろうか。デパートに就職したなんていえば、結構偉そうにできたものだが、今やなんだか斜陽産業であるように感じられる。それでも大家として儲けられれば、それはそれでいいのだろうが、流通業ではなく、実質的には不動産業のような利益のあげ方をするようでは、もう「百貨店」とは言えないのではないだろうか。
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亀戸大根で有名な升本へ食べに行った。お昼は2種類しかなかったため、連れとは別々のものを頼み、両方を味見してみることにした。
自分はあさり鍋のセットを食べ、連れはセイロご飯のセットを食べた。鍋の方を見た感想は、「これって、深川飯って言わねぇか?」という感じで、食べた感想を一言で言えば、「ただのぶっかけ飯じゃん!」という感じ。いわゆる「猫まんま」というのだろうか、ご飯にみそ汁をぶっかけて食う、ただそれだけである。
しかも、そのみそ汁が別にうまくもないので、これまた困る。それほどダシが出ているわけでもなく、大根の風味もそれほど感じられない。これならうちで食べてる大根のミソ汁の方が、よっぽど大根の味が出ている。しかも、アサリもたくさん入っているのに、アサリの味があまりしない。あれだけたくさんのアサリが入っていたら、もっとみそ汁からアサリのダシの味がしても良さそうなのに、ミソの味が中心でダシの味がほとんどしない。だから、あまりうまみがない。上品といえば上品なのだろうが、京都などでの上品な料理というのは、味が薄くてもダシや香りなどで食べられるイメージなので、そういう意味ではうす味なだけという気もする。
これがセイロご飯になると、もっと顕著になる。味のない炊き込みご飯に、スープと称するダイコン汁では、はっきり言っておいしいとは言い難い。しかも、ぬるくなっていてはなおさらだ。これは、おまんじゅうも同じ。長野のおやきのようなまんじゅうがあるのだが、これもぬるくなっていてはイマイチ。もともと、おやきがそれほど好きではないことも手伝って、あまりおいしいとは思えなかった。
そんなわけで、一部の人には評判がよいようだが、ボクとしてはもちろんパス!もうきっと、二度と行くことはないだろう。亀戸近辺にはおいしい店が少ないし、亀戸天神の帰りに寄る店としては、あまり良い店がないのでここに行くのはわかるのだが、個人的には話のタネに一度だけ行って、それからはもうちょっと違うところを探すことをおすすめしたい。
自分はあさり鍋のセットを食べ、連れはセイロご飯のセットを食べた。鍋の方を見た感想は、「これって、深川飯って言わねぇか?」という感じで、食べた感想を一言で言えば、「ただのぶっかけ飯じゃん!」という感じ。いわゆる「猫まんま」というのだろうか、ご飯にみそ汁をぶっかけて食う、ただそれだけである。
しかも、そのみそ汁が別にうまくもないので、これまた困る。それほどダシが出ているわけでもなく、大根の風味もそれほど感じられない。これならうちで食べてる大根のミソ汁の方が、よっぽど大根の味が出ている。しかも、アサリもたくさん入っているのに、アサリの味があまりしない。あれだけたくさんのアサリが入っていたら、もっとみそ汁からアサリのダシの味がしても良さそうなのに、ミソの味が中心でダシの味がほとんどしない。だから、あまりうまみがない。上品といえば上品なのだろうが、京都などでの上品な料理というのは、味が薄くてもダシや香りなどで食べられるイメージなので、そういう意味ではうす味なだけという気もする。
これがセイロご飯になると、もっと顕著になる。味のない炊き込みご飯に、スープと称するダイコン汁では、はっきり言っておいしいとは言い難い。しかも、ぬるくなっていてはなおさらだ。これは、おまんじゅうも同じ。長野のおやきのようなまんじゅうがあるのだが、これもぬるくなっていてはイマイチ。もともと、おやきがそれほど好きではないことも手伝って、あまりおいしいとは思えなかった。
そんなわけで、一部の人には評判がよいようだが、ボクとしてはもちろんパス!もうきっと、二度と行くことはないだろう。亀戸近辺にはおいしい店が少ないし、亀戸天神の帰りに寄る店としては、あまり良い店がないのでここに行くのはわかるのだが、個人的には話のタネに一度だけ行って、それからはもうちょっと違うところを探すことをおすすめしたい。
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ISBN:4061824244 新書 姉小路 祐 講談社 2005/04/06 ¥882
読んでいて、どこまでが本当で、どこからがフィクションなのかわからなくなってきた。でも、一気に読了したと言うことは、とても面白かったということ。以前にも紹介したが、鯨統一郎氏の「邪馬台国はどこですか」シリーズを楽しめる人なら、きっとこれも楽しめるのではないかと思う。
内容としては、実際の史料を使いつつも、それに一部推論を加えて、新しい歴史の解釈を示すというのがメイン。だから、人が死んだりして、ミステリーっぽいこともやってはいるのだが、それはどちらかというと傍論的な部分でこじつけっぽく、あまり面白い訳ではない。
しかも、あまり出てくるキャラクターは魅力的でない。いや、鯨氏の作品での登場人物が、ある意味でマンガ的にキャラクターがたっているのに対して、この作品では現実の人間が描かれているために感じるのだと思うのだが、そういう意味ではエンタメ性が薄い。
だから、きっとこの本の評価は、読みやすさという観点も含め、好みが分かれると思うのだが、読み方としては疑わず、考えず、素直に読んでいって感心するのがよい本であろう。読もうか悩んでいる人には、ぜひ買って欲しい一冊ではある。
読んでいて、どこまでが本当で、どこからがフィクションなのかわからなくなってきた。でも、一気に読了したと言うことは、とても面白かったということ。以前にも紹介したが、鯨統一郎氏の「邪馬台国はどこですか」シリーズを楽しめる人なら、きっとこれも楽しめるのではないかと思う。
内容としては、実際の史料を使いつつも、それに一部推論を加えて、新しい歴史の解釈を示すというのがメイン。だから、人が死んだりして、ミステリーっぽいこともやってはいるのだが、それはどちらかというと傍論的な部分でこじつけっぽく、あまり面白い訳ではない。
しかも、あまり出てくるキャラクターは魅力的でない。いや、鯨氏の作品での登場人物が、ある意味でマンガ的にキャラクターがたっているのに対して、この作品では現実の人間が描かれているために感じるのだと思うのだが、そういう意味ではエンタメ性が薄い。
だから、きっとこの本の評価は、読みやすさという観点も含め、好みが分かれると思うのだが、読み方としては疑わず、考えず、素直に読んでいって感心するのがよい本であろう。読もうか悩んでいる人には、ぜひ買って欲しい一冊ではある。
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脱線電車乗車の運転士2人が救助せず出勤 [日刊スポーツ]
2005年5月3日 時事ニュース
05月03日付 日刊スポーツの報道「脱線電車乗車の運転士2人が救助せず出勤」へのコメント:
これってね、仕方がないなんて言ったら怒られるのかね。
問題となっているのは運転士でしょ。もし、彼らが駅員なら、いなくても何とかなるかもしれないけど、運転士ってことは、他の路線のダイヤにも乱れが生じるかもしれないってことよね。そう考えると、運転しなきゃ、って本人たちが思っちゃったのも、仕方がないかなって気もするんだよね。
やっぱり、こんな考えは不謹慎なのかなぁ。でも、運転士なんだよなぁ。彼らがいないと、運行できない電車が出るかもしれない訳だよなぁ。そう考えると、二人があそこで救助活動を手伝うことによって得られるはずだった利益と、出社しないことによって出たであろう影響や害悪というのを比較すると、どうも害悪の方が大きかったのではないかという気もするのだが、きっと今こんなことを言うのは、やっぱり不謹慎なんだろうね!
これってね、仕方がないなんて言ったら怒られるのかね。
問題となっているのは運転士でしょ。もし、彼らが駅員なら、いなくても何とかなるかもしれないけど、運転士ってことは、他の路線のダイヤにも乱れが生じるかもしれないってことよね。そう考えると、運転しなきゃ、って本人たちが思っちゃったのも、仕方がないかなって気もするんだよね。
やっぱり、こんな考えは不謹慎なのかなぁ。でも、運転士なんだよなぁ。彼らがいないと、運行できない電車が出るかもしれない訳だよなぁ。そう考えると、二人があそこで救助活動を手伝うことによって得られるはずだった利益と、出社しないことによって出たであろう影響や害悪というのを比較すると、どうも害悪の方が大きかったのではないかという気もするのだが、きっと今こんなことを言うのは、やっぱり不謹慎なんだろうね!
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JR西日本社長が現場で献花 「今頃なにしに」の声も [朝日新聞]
2005年5月3日 時事ニュース
05月03日付 朝日新聞の報道「JR西日本社長が現場で献花 「今頃なにしに」の声も」へのコメント:
ボクはいわゆる報道という分野における”マスコミ”というのはあまり好きではない。ジャーナリストとか、ジャーナリズムとかいうものを振りかざす人がしばしばいるが、そういう人たちの意見というのには、特にあまり賛同できないことが多い。
言葉を正確に使うとすれば、伝えようとする熱意を否定する気はないが、ペンの暴力になりうることをわかっていながら追及する態度は気に入らないということになるだろうか。ボクはなんだかそういう匂いを感じたとき、マスコミの人間たちに対して非常に反感を感じてしまったりするのである。
小林よりのりという漫画家がいる。彼の著作にゴーマニズム宣言という本があるが、ボクは初期において非常にその本を気に入り、新刊が出るたびに買っていた。しかし、だんだんと買う気が失せてきて、途中からは見向きもしなくなってしまった。
それはなぜか?
理由は簡単で、だんだんと人々がその本を注目するようになってきて、本人もそれを意識しだしたからである。
本人が自分の言葉の影響力を意識し始めたとき、それは下の立場から権力を突き上げるのではなく、権力を下に見た上で、高所から批判する書きぶりになってくる。その瞬間、ボクは、彼らの書く文章がペンの暴力となりうる危険性を生じ始めてくるのではないかと考えている。
こんなことを延々と書いたのは、だんだんとこの脱線事故に関する一連の報道が、担当者いじめに似た状況になり始めているように感じるからだ。非難すべきところを非難するのは正しい。しかし、重箱の隅をつつくような話をして責め立て、まるで自分は正義だというかのように追及して、それを放送するというのは、ボクはなんだか見ていて気分が悪い。
そんなわけで、今日は若干JR擁護論的な立場から書いてみたいと思う。
マンションの住人で、社長が献花に来たのなら、マンションも回って挨拶しろと言っていた人がいたが、ボクはそこまで要求するのはやりすぎな気がする。正直な話、ここら辺は意見が分かれるところであろうとは思うのだが、ボクはJRが行っているマンションの住民に対する処遇は、十分なレベルに達しているのではないかと思う。当日はすぐにホテルを用意し、その後は代わりのマンションを用意する。これだけやっているのだから、よくやっている方なのではないだろうか。そして、当然のことながら、担当者などは謝りに来ているはずであり、何かあったときに「社長を出せ!」というのは常套手段ではあるが、実際にあれだけの大会社の社長がすべてにご挨拶なんてできるはずがないのであり、第一、被害者の遺族や、いまだ入院中の被害者本人にだって全部会っている訳ではないはずなのに、それをさしおいて、ただ自宅マンションの一階に電車が突っ込まれただけで、自宅自体が壊れた訳でもなければ、自分の身体にケガを負った訳でもない人々が、悲鳴とかを聞いたから精神的につらいなんて言っているだけで、なんだか実際の被害者や遺族と同列のような顔をしているのは、ちょっと行き過ぎであるように感じられる。
当然、それらマンションの住民の補償というのは考えられなければならない。しかし、担当者レベルの謝罪ですませてよいレベルと、社長が直々に訪問して謝らなければならないレベルがあるとすれば、明らかにあの人たちは担当者レベルで十分なレベルであり、社長が一軒一軒を訪問しなければならないほどの問題ではないと思う。社長がまず第一に訪問すべきは、あのような人たちではなく、もっと重大な、自分の未来を失い、夢を失い、これからの人生において大きなものを背負って生きていかなくてはならない、そんな人たちの方であって、それこそマンション住民に会っている時間があるのなら、そういう人たちに1人でも多く会うべきなのではないかと、ボクは考えるのである。
そういう意味において、被害者の声を伝えることは大切であるが、それがすべて正義だというのは、それはそれで間違いではないかと思う。それは交通事故の一方当事者の話だけをきくようなものであり、そういうときに相手が何もしてくれないという言い分を、そのままうのみにすることが必ずしも正しくないのと同じなのである。
また、記者会見においても、あまり生産性のない質問や追及がなされていることがよくある。そういうときの記者の声を聞いていて感じるのは、異常なまでの高揚感であり、自分は正義だという自負である。しかし、どうなのだろう。かのフジテレビやニッポン放送だって、自分が取材の対象になったときはモノを語ろうとしなかったり、あまりよくない対応をしていたりしていたのではないだろうか。つまり、ボクが言いたいのは、その立場におかれた人間が、どういう行動を起こすかというのは、環境に左右される部分もあるのであって、そういう意味においては、自分がその環境におかれた場合にするであろう行動が、今のJRで問題となっている行動と本当に違うのかをよく検証してみる必要がある気がするのだ。そして、それが本当におかしい場合には追及すべきであり、まあ仕方がない行動である場合には、問題としつつも個人を責めないという態度があってもいいのではないだろうか。
なんだか難しいことを書き始めてしまった気がしているが、要は個人を責めるべき部分と、会社におけるシステムというか、ソフト面というか、あえて言うなら「人格」とでも言うべき要素を責める部分とを分けるべきではないかということである。そして、それは一般社員の行動はもちろんのこと、社長個人の行動であったり、取締役個人の行動であったりしても同様であって、あの大事故の混乱の中でなすべきことをやったかどうかというのは、事後的に判断されるべきではなく、その場において何が可能であったか、という観点から考えるべきなのである。
しかし、現実の報道においてはそのようには考えられていないのであり、ただ単に事後的な理想論から批判を加えている。その方がテレビとして面白いのはわかるのだが、それならばバラエティーとしてのニュースを自認すべきであり、それこそジャーナリズムだとか、報道だとかいう言葉を使う必要はないと思うのだが、まあこんな意見に賛同してくれる人はほとんどいないんだろうね!
ボクはいわゆる報道という分野における”マスコミ”というのはあまり好きではない。ジャーナリストとか、ジャーナリズムとかいうものを振りかざす人がしばしばいるが、そういう人たちの意見というのには、特にあまり賛同できないことが多い。
言葉を正確に使うとすれば、伝えようとする熱意を否定する気はないが、ペンの暴力になりうることをわかっていながら追及する態度は気に入らないということになるだろうか。ボクはなんだかそういう匂いを感じたとき、マスコミの人間たちに対して非常に反感を感じてしまったりするのである。
小林よりのりという漫画家がいる。彼の著作にゴーマニズム宣言という本があるが、ボクは初期において非常にその本を気に入り、新刊が出るたびに買っていた。しかし、だんだんと買う気が失せてきて、途中からは見向きもしなくなってしまった。
それはなぜか?
理由は簡単で、だんだんと人々がその本を注目するようになってきて、本人もそれを意識しだしたからである。
本人が自分の言葉の影響力を意識し始めたとき、それは下の立場から権力を突き上げるのではなく、権力を下に見た上で、高所から批判する書きぶりになってくる。その瞬間、ボクは、彼らの書く文章がペンの暴力となりうる危険性を生じ始めてくるのではないかと考えている。
こんなことを延々と書いたのは、だんだんとこの脱線事故に関する一連の報道が、担当者いじめに似た状況になり始めているように感じるからだ。非難すべきところを非難するのは正しい。しかし、重箱の隅をつつくような話をして責め立て、まるで自分は正義だというかのように追及して、それを放送するというのは、ボクはなんだか見ていて気分が悪い。
そんなわけで、今日は若干JR擁護論的な立場から書いてみたいと思う。
マンションの住人で、社長が献花に来たのなら、マンションも回って挨拶しろと言っていた人がいたが、ボクはそこまで要求するのはやりすぎな気がする。正直な話、ここら辺は意見が分かれるところであろうとは思うのだが、ボクはJRが行っているマンションの住民に対する処遇は、十分なレベルに達しているのではないかと思う。当日はすぐにホテルを用意し、その後は代わりのマンションを用意する。これだけやっているのだから、よくやっている方なのではないだろうか。そして、当然のことながら、担当者などは謝りに来ているはずであり、何かあったときに「社長を出せ!」というのは常套手段ではあるが、実際にあれだけの大会社の社長がすべてにご挨拶なんてできるはずがないのであり、第一、被害者の遺族や、いまだ入院中の被害者本人にだって全部会っている訳ではないはずなのに、それをさしおいて、ただ自宅マンションの一階に電車が突っ込まれただけで、自宅自体が壊れた訳でもなければ、自分の身体にケガを負った訳でもない人々が、悲鳴とかを聞いたから精神的につらいなんて言っているだけで、なんだか実際の被害者や遺族と同列のような顔をしているのは、ちょっと行き過ぎであるように感じられる。
当然、それらマンションの住民の補償というのは考えられなければならない。しかし、担当者レベルの謝罪ですませてよいレベルと、社長が直々に訪問して謝らなければならないレベルがあるとすれば、明らかにあの人たちは担当者レベルで十分なレベルであり、社長が一軒一軒を訪問しなければならないほどの問題ではないと思う。社長がまず第一に訪問すべきは、あのような人たちではなく、もっと重大な、自分の未来を失い、夢を失い、これからの人生において大きなものを背負って生きていかなくてはならない、そんな人たちの方であって、それこそマンション住民に会っている時間があるのなら、そういう人たちに1人でも多く会うべきなのではないかと、ボクは考えるのである。
そういう意味において、被害者の声を伝えることは大切であるが、それがすべて正義だというのは、それはそれで間違いではないかと思う。それは交通事故の一方当事者の話だけをきくようなものであり、そういうときに相手が何もしてくれないという言い分を、そのままうのみにすることが必ずしも正しくないのと同じなのである。
また、記者会見においても、あまり生産性のない質問や追及がなされていることがよくある。そういうときの記者の声を聞いていて感じるのは、異常なまでの高揚感であり、自分は正義だという自負である。しかし、どうなのだろう。かのフジテレビやニッポン放送だって、自分が取材の対象になったときはモノを語ろうとしなかったり、あまりよくない対応をしていたりしていたのではないだろうか。つまり、ボクが言いたいのは、その立場におかれた人間が、どういう行動を起こすかというのは、環境に左右される部分もあるのであって、そういう意味においては、自分がその環境におかれた場合にするであろう行動が、今のJRで問題となっている行動と本当に違うのかをよく検証してみる必要がある気がするのだ。そして、それが本当におかしい場合には追及すべきであり、まあ仕方がない行動である場合には、問題としつつも個人を責めないという態度があってもいいのではないだろうか。
なんだか難しいことを書き始めてしまった気がしているが、要は個人を責めるべき部分と、会社におけるシステムというか、ソフト面というか、あえて言うなら「人格」とでも言うべき要素を責める部分とを分けるべきではないかということである。そして、それは一般社員の行動はもちろんのこと、社長個人の行動であったり、取締役個人の行動であったりしても同様であって、あの大事故の混乱の中でなすべきことをやったかどうかというのは、事後的に判断されるべきではなく、その場において何が可能であったか、という観点から考えるべきなのである。
しかし、現実の報道においてはそのようには考えられていないのであり、ただ単に事後的な理想論から批判を加えている。その方がテレビとして面白いのはわかるのだが、それならばバラエティーとしてのニュースを自認すべきであり、それこそジャーナリズムだとか、報道だとかいう言葉を使う必要はないと思うのだが、まあこんな意見に賛同してくれる人はほとんどいないんだろうね!
2運転士「現場逃亡」に遺族ら憤り JR西は会見で謝罪 [朝日新聞]
2005年5月3日 時事ニュース
05月03日付 朝日新聞の報道「2運転士「現場逃亡」に遺族ら憤り JR西は会見で謝罪」へのコメント:
脱線事故の際、たまたまその電車に二人のJRの運転士が乗り合わせ、その二人が救助活動を手伝わず、自分の職場に向かったことが非難されているらしい。
でも、彼らを非難する人がいるとしたら筋違いだ。だって、考えてみて欲しい。JR西日本大阪支社において、今年最も重要なスローガンは「稼ぐ」なのである。だとしたら、金にもならない救助活動に加わるよりか、通常の乗務について、列車の定時運行に貢献する方が、それは正しい行動ということになるだろう。何しろ、死にそうな人やケガ人なんて、いくら助けてみたところで、「稼ぐ」ことにはならないのであり、自らが乗る予定であった列車にきちんと乗務して、1秒単位の狂いもなく定時運行させた方が、それは「稼ぐ」ことにつながるのである。
そういう意味において、JR西日本は会社の方針にあくまでも忠実であった二人の運転士に対して、よくぞ会社の方針を守ってくれたと褒めることはできたとしても、処罰などをできる立場にはないと考えるべきだろう。そして、もしも二人の行動が人間として間違っているとすれば、それはそのような行動を強制した会社や、その責任者が責めを負うべきであり、当の本人たちは責められる筋合いにはないと思う。
JR西日本の体質が非常に取り上げられているが、ふと立ち返ってみると、自分の会社も似たようなものであるのではないか、という疑念がわいてくる。リストラの名の下に人員は減らされ、以前と比べると少ない人数で同じ量の仕事をさせられる。しかも、それをサービス残業や自宅での持ち帰り仕事で乗り切ると、今度はこの人数でここまでできるなら、もっとできるはずだ、とか言い出す。それでいて、情報流出が問題になると家に仕事を持ち帰るな、と言い、労基署がうるさいからとサービス残業禁止令が出て、10時以降は強制的に職場を退去させられ、きちんとセコムなどに退出の記録が残されていないと責任者が注意される。そんな状況はどこにでもあるのではないかと思われる。
利益中心の体質が問題だと責めるのはわかるのだが、自分たちの会社もそうではないかと考えてみると、なんだか日本全体がそうなってきてしまったのではないかという気がしてくる。そういう意味においては、日本という国全体のゆがみが、あそこには現れているのであり、JRの経営陣について特別に問題があったという訳ではないのではないかという気がするのだが、これはJRの経営陣に甘すぎる意見なのであろうか?
脱線事故の際、たまたまその電車に二人のJRの運転士が乗り合わせ、その二人が救助活動を手伝わず、自分の職場に向かったことが非難されているらしい。
でも、彼らを非難する人がいるとしたら筋違いだ。だって、考えてみて欲しい。JR西日本大阪支社において、今年最も重要なスローガンは「稼ぐ」なのである。だとしたら、金にもならない救助活動に加わるよりか、通常の乗務について、列車の定時運行に貢献する方が、それは正しい行動ということになるだろう。何しろ、死にそうな人やケガ人なんて、いくら助けてみたところで、「稼ぐ」ことにはならないのであり、自らが乗る予定であった列車にきちんと乗務して、1秒単位の狂いもなく定時運行させた方が、それは「稼ぐ」ことにつながるのである。
そういう意味において、JR西日本は会社の方針にあくまでも忠実であった二人の運転士に対して、よくぞ会社の方針を守ってくれたと褒めることはできたとしても、処罰などをできる立場にはないと考えるべきだろう。そして、もしも二人の行動が人間として間違っているとすれば、それはそのような行動を強制した会社や、その責任者が責めを負うべきであり、当の本人たちは責められる筋合いにはないと思う。
JR西日本の体質が非常に取り上げられているが、ふと立ち返ってみると、自分の会社も似たようなものであるのではないか、という疑念がわいてくる。リストラの名の下に人員は減らされ、以前と比べると少ない人数で同じ量の仕事をさせられる。しかも、それをサービス残業や自宅での持ち帰り仕事で乗り切ると、今度はこの人数でここまでできるなら、もっとできるはずだ、とか言い出す。それでいて、情報流出が問題になると家に仕事を持ち帰るな、と言い、労基署がうるさいからとサービス残業禁止令が出て、10時以降は強制的に職場を退去させられ、きちんとセコムなどに退出の記録が残されていないと責任者が注意される。そんな状況はどこにでもあるのではないかと思われる。
利益中心の体質が問題だと責めるのはわかるのだが、自分たちの会社もそうではないかと考えてみると、なんだか日本全体がそうなってきてしまったのではないかという気がしてくる。そういう意味においては、日本という国全体のゆがみが、あそこには現れているのであり、JRの経営陣について特別に問題があったという訳ではないのではないかという気がするのだが、これはJRの経営陣に甘すぎる意見なのであろうか?
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各地で追悼、葬送の式典 JR脱線事故 [朝日新聞]
2005年4月28日 時事ニュース
04月28日付 朝日新聞の報道「各地で追悼、葬送の式典 JR脱線事故」へのコメント:
遺族の方々の気持ちを考えるとやりきれない。いや、それ以上に電車に乗っていただけで死んでしまった人たちのことを考えるとやりきれない。
ボクだって、明日電車に乗っていて死ぬかもしれない。そう考えると、それを防ぐことは実際問題としてできないのだが、ちょっと怖くなる。
運転手に対して、ボクはとても同情的だ。そして、状況を知れば知るほど、ボクは彼に同情的になる。3分に1本の割合で来る電車。これはとても便利だと思う。しかし、その電車の定時運行が、すべて人間の手によって成し遂げられているとしたら、それはとても怖いことではないだろうか。
人間は機械ではない。まったく同じ操作を繰り返すことはできない。それより何より、1秒単位できちんと運行させなければならないなんて、現実問題として無理だ。もし、それをやれと言う人がいるのなら、ぜひチャレンジしてみたらいい。やり方は簡単だ。時計を見ながら、自分の家の周りを一定の時間で散歩するのだ。当然、スピード違反はできないから、走ってはダメだ。ひたすら歩いて、3分なら3分で歩く。しかも、1秒だって遅れずにだ。足でやったって大変だと思う。じゃあ、それを自転車でやったらどうだろう。自動車でやったらどうだろう。きっと運転手の気持ちが少しはわかるのではないだろうか。
そんな定時運行をさせようとするのなら、それはコンピューターに委ねるほか無いだろう。多少の遅れが生じても、コンピューターなら無理のない程度に全体を動かして、うまく取り繕ってくれるに違いない。しかし、あの路線は赤信号を無視したときだけに止まる、非常に古いタイプのものを使っていたという。山の手線なみの過密ダイヤを組みながら、赤信号で止まれということ以外は、すべて現場の運転手が自己責任で行っていたことになる。ハッキリ言って異常だ。
そして、悪名高き「日勤」。あれの目的はなんだろうか?厳罰主義で、すべては解決するのだろうか?ミスというのはうっかりやるものである。うっかりやるからミスなのであり、わざとやったのならそれこそ事故につながる大問題であり、犯罪にもなりかねない。そのうっかりミスを、その人が二度と受けたくないと思うような社内いじめにも似た行動によって解決しようなど、誰が考えたのであろうか。
例えば、あなたが寝ているときにいびきをかいていたとして、周りの人が迷惑に思っていたとする。そのとき、いびきをかくたびに寝られないくらいに「周りに迷惑をかけていることがわからないのか!」と数人で取り囲んで怒鳴りまくり、ひたすら数時間ごめんなさいと言わせ続けたとしたら、それによりいびきはなくなるのだろうか。ボクが思うに、彼は不安により不眠症になりこそすれ、いびきが無くなるということはないだろうと思う。つまり、自らが意思決定を行って行動したものではない以上、本人を責めたところで、行動があらたまる訳ではないのである。意思決定を行うのならば、そこで他の選択肢を選択することができる。しかし、うっかりというのは他の選択肢が取り得ない。それを、当人の意識に訴えかけたところで、なくなることはないのである。
これは本人に責任をとらせなくて良いという話ではない。しかし、問題が発生したときの解決方法としては、ほとんど意味がない行動をやっていたのではないかと思うのである。そして、今回はそのことが逆効果になり、多くの人命が失われ、運転士という夢を追った青年の命と名誉も失われた。なんて哀しい話だろう。
民営化によって、コスト意識がでたことはよいことだと思う。しかし、利益に直接つながらないからお金をかけないというのは、大きな問題である。問題が起こるたびに、現場の人間を悪者にして、それで責任問題をすませるというのは、確かにお金はかからないし、上の人間の責任は薄まるしで、いいことづくめかもしれない。でも、それで社長も「高見くんとかいう、新人の使えないダメ運転手が、オーバーランを起こした上に、勝手にスピードを出して事故まで起こしたんだから、ボクは関係ないし、むしろとりあえず給料を返上させられるだけでも迷惑を被っているんだから、これで責任なんて十分とってるし、辞める気なんか当然サラサラないよね!」という感じだとしたら、部外者ながらも、ちょっと腹が立ってきたりする。
遺族の方々の気持ちを考えるとやりきれない。いや、それ以上に電車に乗っていただけで死んでしまった人たちのことを考えるとやりきれない。
ボクだって、明日電車に乗っていて死ぬかもしれない。そう考えると、それを防ぐことは実際問題としてできないのだが、ちょっと怖くなる。
運転手に対して、ボクはとても同情的だ。そして、状況を知れば知るほど、ボクは彼に同情的になる。3分に1本の割合で来る電車。これはとても便利だと思う。しかし、その電車の定時運行が、すべて人間の手によって成し遂げられているとしたら、それはとても怖いことではないだろうか。
人間は機械ではない。まったく同じ操作を繰り返すことはできない。それより何より、1秒単位できちんと運行させなければならないなんて、現実問題として無理だ。もし、それをやれと言う人がいるのなら、ぜひチャレンジしてみたらいい。やり方は簡単だ。時計を見ながら、自分の家の周りを一定の時間で散歩するのだ。当然、スピード違反はできないから、走ってはダメだ。ひたすら歩いて、3分なら3分で歩く。しかも、1秒だって遅れずにだ。足でやったって大変だと思う。じゃあ、それを自転車でやったらどうだろう。自動車でやったらどうだろう。きっと運転手の気持ちが少しはわかるのではないだろうか。
そんな定時運行をさせようとするのなら、それはコンピューターに委ねるほか無いだろう。多少の遅れが生じても、コンピューターなら無理のない程度に全体を動かして、うまく取り繕ってくれるに違いない。しかし、あの路線は赤信号を無視したときだけに止まる、非常に古いタイプのものを使っていたという。山の手線なみの過密ダイヤを組みながら、赤信号で止まれということ以外は、すべて現場の運転手が自己責任で行っていたことになる。ハッキリ言って異常だ。
そして、悪名高き「日勤」。あれの目的はなんだろうか?厳罰主義で、すべては解決するのだろうか?ミスというのはうっかりやるものである。うっかりやるからミスなのであり、わざとやったのならそれこそ事故につながる大問題であり、犯罪にもなりかねない。そのうっかりミスを、その人が二度と受けたくないと思うような社内いじめにも似た行動によって解決しようなど、誰が考えたのであろうか。
例えば、あなたが寝ているときにいびきをかいていたとして、周りの人が迷惑に思っていたとする。そのとき、いびきをかくたびに寝られないくらいに「周りに迷惑をかけていることがわからないのか!」と数人で取り囲んで怒鳴りまくり、ひたすら数時間ごめんなさいと言わせ続けたとしたら、それによりいびきはなくなるのだろうか。ボクが思うに、彼は不安により不眠症になりこそすれ、いびきが無くなるということはないだろうと思う。つまり、自らが意思決定を行って行動したものではない以上、本人を責めたところで、行動があらたまる訳ではないのである。意思決定を行うのならば、そこで他の選択肢を選択することができる。しかし、うっかりというのは他の選択肢が取り得ない。それを、当人の意識に訴えかけたところで、なくなることはないのである。
これは本人に責任をとらせなくて良いという話ではない。しかし、問題が発生したときの解決方法としては、ほとんど意味がない行動をやっていたのではないかと思うのである。そして、今回はそのことが逆効果になり、多くの人命が失われ、運転士という夢を追った青年の命と名誉も失われた。なんて哀しい話だろう。
民営化によって、コスト意識がでたことはよいことだと思う。しかし、利益に直接つながらないからお金をかけないというのは、大きな問題である。問題が起こるたびに、現場の人間を悪者にして、それで責任問題をすませるというのは、確かにお金はかからないし、上の人間の責任は薄まるしで、いいことづくめかもしれない。でも、それで社長も「高見くんとかいう、新人の使えないダメ運転手が、オーバーランを起こした上に、勝手にスピードを出して事故まで起こしたんだから、ボクは関係ないし、むしろとりあえず給料を返上させられるだけでも迷惑を被っているんだから、これで責任なんて十分とってるし、辞める気なんか当然サラサラないよね!」という感じだとしたら、部外者ながらも、ちょっと腹が立ってきたりする。
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運転士、無線に応答せず加速 尼崎・列車脱線事故 [朝日新聞]
2005年4月27日 時事ニュース
04月27日付 朝日新聞の報道「運転士、無線に応答せず加速 尼崎・列車脱線事故」へのコメント:
とても哀しい事故である。なんだかやりきれない事故である。電車に乗っていただけの人々が、突然不幸に見舞われる。
運転手が悪いと責めることもできよう。でも、彼自身、非常に若く、その職場でも新人だった。自分が新人として職場に配属され、慣れない仕事に取り組んでいた頃のことを思い出すと、なんだか彼を責める気にもならない。
彼が未熟だからいけないと責める人もいよう。このような結果になってしまった以上、それを否定することはできない。ただ、そういう人がいたとしたら、ボクはその人にきいてみたい。
あなたが就職して一年目の時、または初めての職場に行って、今までとは全く違う仕事をすることになった時、あなたはそんなにうまくいきましたか、と。
得体のわからぬものに責任を転嫁することは、よくないかもしれない。でも、ボクはふと、会社が悪いという気持ちにならざるを得なかった。人間がミスをしてしまったとき、それを厳しく処罰すればもうやらないと考える考え方。果たしてそれが正しいのか、それが問われている気がする。
彼が無線に応答しなかった理由。それはボクにはわからないが、ボクが同じ立場だったら、もしかしたら同じようなことをしたかもしれない。
やってしまった、という思いでいっぱいで、また怒られるということが頭の中を駆けめぐり、できるだけ怒られないようにと車掌さんに40mのオーバーランを8mと報告してもらえないか頼み、それでもなんとか自分のミスを挽回したくて、ギリギリのスピードでとばしていった。それは、マジメで、責任感が強いからこそやってしまったことであり、もし本当にいい加減な人間だったら、そんなミスは気にしなかっただろう。
ミスを次からなくすために、厳罰に処して、もうこんな目にあいたくないと思わせることは、それはそれとしてミスを減らす方法なのかもしれない。しかし、今回はそれが逆に次の大きなミスを引き起こしてしまった可能性があることを考えると、新人が成長していく過程において引き起こしてしまうミスを多少は許容し、それをいかになくせるように育てていくか、ということに、もっと会社は気を配るべきだったのではないかと思わざるを得ない。
とても哀しい事故である。なんだかやりきれない事故である。電車に乗っていただけの人々が、突然不幸に見舞われる。
運転手が悪いと責めることもできよう。でも、彼自身、非常に若く、その職場でも新人だった。自分が新人として職場に配属され、慣れない仕事に取り組んでいた頃のことを思い出すと、なんだか彼を責める気にもならない。
彼が未熟だからいけないと責める人もいよう。このような結果になってしまった以上、それを否定することはできない。ただ、そういう人がいたとしたら、ボクはその人にきいてみたい。
あなたが就職して一年目の時、または初めての職場に行って、今までとは全く違う仕事をすることになった時、あなたはそんなにうまくいきましたか、と。
得体のわからぬものに責任を転嫁することは、よくないかもしれない。でも、ボクはふと、会社が悪いという気持ちにならざるを得なかった。人間がミスをしてしまったとき、それを厳しく処罰すればもうやらないと考える考え方。果たしてそれが正しいのか、それが問われている気がする。
彼が無線に応答しなかった理由。それはボクにはわからないが、ボクが同じ立場だったら、もしかしたら同じようなことをしたかもしれない。
やってしまった、という思いでいっぱいで、また怒られるということが頭の中を駆けめぐり、できるだけ怒られないようにと車掌さんに40mのオーバーランを8mと報告してもらえないか頼み、それでもなんとか自分のミスを挽回したくて、ギリギリのスピードでとばしていった。それは、マジメで、責任感が強いからこそやってしまったことであり、もし本当にいい加減な人間だったら、そんなミスは気にしなかっただろう。
ミスを次からなくすために、厳罰に処して、もうこんな目にあいたくないと思わせることは、それはそれとしてミスを減らす方法なのかもしれない。しかし、今回はそれが逆に次の大きなミスを引き起こしてしまった可能性があることを考えると、新人が成長していく過程において引き起こしてしまうミスを多少は許容し、それをいかになくせるように育てていくか、ということに、もっと会社は気を配るべきだったのではないかと思わざるを得ない。
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